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アラウィー朝 : ミニ英和和英辞書
アラウィー朝[あらうぃーあさ]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [あさ, ちょう]
 (n-adv,n-t) morning

アラウィー朝 : ウィキペディア日本語版
アラウィー朝[あらうぃーあさ]
アラウィー朝(Sulālat al-ʿAlawiyyīn al-Fīlālīyn)は、17世紀末からモロッコを統治する王朝。首都はフェズメクネスラバト。この項目では、主に1956年植民地支配からの独立までの王朝について述べる。
== 歴史 ==

=== 建国初期 ===

アラウィー家の祖であるは、13世紀後半にアラビア半島ヤンブーから、サハラ交易の拠点であるシジルマサに移住したと伝えられている〔長谷部、私市「オスマン帝国治下のアラブ地域」『西アジア史』1、391-394頁〕。モロッコ南部にたどり着いたマウラーヤの一族はシャリーフ(預言者ムハンマドの子孫)として現地のベルベル諸部族から敬意を持って扱われた〔斎藤「アラウィー朝」『岩波イスラーム辞典』、71-72頁〕。1631年にアラウィー家のはシジルマサの住民からバイアを受け、政治的影響力を強める〔。
サアド朝末期のモロッコには小勢力が乱立する状況にあり、アラウィー家は小勢力への軍事支援を引き受け、援軍に呼ばれた町を占領して勢力を拡大した〔那谷『紀行 モロッコ史』、249頁〕。マウラーヤ・シャリーフの子は1640年にスース地方に割拠するマラブー(イスラム教における聖者)のハサンを破ってドラア渓谷を制圧し、「ターフィラルトのスルターン」を自称した〔那谷『紀行 モロッコ史』、230,249頁〕。ムハンマドはフェズからシジルマサに至るラインの確保を図り、1650年にはウジダネドロマトレムセンを獲得する〔。アルジェリアを支配するオスマン帝国がアラウィー家の拡大を警戒してトレムセンに軍を進めたため、ムハンマドはシジルマサに退却し、タフナ付近をアルジェリアとの境界に定めた〔。ムハンマドはアラウィー家の指導者の地位を弟のラシードに譲り、自らは地方の領主となって一線から退いた〔。
17世紀半ばのサアド朝の混乱期に、アラウィー家はラシードの指導下で勢力を拡大していく。ラシードはムハンマドの時代からアラウィー家と敵対するスーフィー教団のディラーイー教団を中部アトラス山脈に追いやり、フェズのイドリース家のシャリーフを服従させた。ラシードはリーフ地方を制圧して南北の交易路を確保し、1667年にフェズとターザ1669年マラケシュを占領する〔那谷『紀行 モロッコ史』、251頁〕。フェズを流れるセブー川に橋を架けて敵対していた二つの市街地フェズ・エル・バリとフェズ・エル・ジャディドを結合し、この地を首都に定めて防備を固めた〔。ラシードはモロッコのイスラーム勢力の代表者としてアミール・アル=ムウミニーン(カリフ)の称号を採用し、彼の時代に国家としての基盤が整備された〔。
ラシードの跡を継いだ弟のイスマーイールは各地の反乱を鎮圧し、1672年にメクネスを首都に定めた。イスマーイールはアルジェリアとの国境地帯の監視が容易で、ラバト、サレなどの港湾都市に近く、フェズやマラケシュに存在する古くからの部族勢力の干渉を回避できるメクネスの地理的利点に着目していた〔那谷『紀行 モロッコ史』、234頁〕。イスマーイールはメクネスを政治・軍事・宗教の中心地とするべく開発に尽力したが、イスマーイールの死後にメクネスは首都の地位を失い、後のスルターンはフェズ、マラケシュを都とした〔那谷『紀行 モロッコ史』、234,241-242頁〕。
イスマーイールの死後に国家の財政は逼迫し、長期にわたって社会は不安定な状態に置かれ、17世紀から19世紀にかけて中央政府の権力は限定される〔。1757年に即位したムハンマド3世はシャリーフとしての血統を強調して宗教的権威を強調し、メッカ(マッカ)のシャリーフと緊密な関係を持った〔。アラビア半島のワッハーブ思想がモロッコに導入されたのは、ムハンマド3世の時代である〔。国家を再統一したムハンマド3世は武力と増税による支配を転換し、貿易の独占と管理による収入の増加による国力の増強を試みる〔。1757年にデンマークと締結した通商協定を皮切りに、モロッコは他の国家と通商協定を締結する。従前はモガドル(アッサウィーラ)が唯一の外港とされていたが、1800年タンジャが開港し〔、鎖国後にはタンジャが唯一の外港となる〔加藤「近代のアラブ社会」『西アジア史』1、448-451頁〕。ムハンマド3世の治世から20世紀初頭まで、関税収入がモロッコの国家収入の大部分を占めるようになる〔。
18世紀末からモロッコ内陸部や山岳地帯は中央政府の支配を拒む諸部族が割拠する「スィーバの地(反乱の地)」となり、政府の支配領域(マフザン)は平野部に限定されていた〔。イスマーイールの時代に実施された部族勢力の移動・離間・抑圧の反動として、山岳地帯の部族勢力が平野部に移住し、諸部族の移動は宗教団体の反抗を引き起こした〔那谷『紀行 モロッコ史』、254-255頁〕。1792年に即位したスライマーンは分裂した王国の復興に取り組むが、政府の直轄領をわずかに回復するだけに留まった〔那谷『紀行 モロッコ史』、255頁〕。また、スライマーンはムハンマド3世の方針を転換してタンジャのみを外国への窓口にする鎖国政策を採るが、19世紀以降モロッコはヨーロッパの列強諸国の進出に晒される。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「アラウィー朝」の詳細全文を読む




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