翻訳と辞書
Words near each other
・ アドルフ・シュマル
・ アドルフ・シュマール
・ アドルフ・シュラーギントヴァイト
・ アドルフ・シュルツ=エヴラー
・ アドルフ・シーザー
・ アドルフ・ストレッカー
・ アドルフ・ダスラー
・ アドルフ・ダルシアク
・ アドルフ・ダンハウザー
・ アドルフ・ダーチアク
アドルフ・チェフ
・ アドルフ・チエール
・ アドルフ・ツー・シャウムブルク=リッペ
・ アドルフ・ツー・シュヴァルツェンベルク
・ アドルフ・ツー・ホーエンローエ=インゲルフィンゲン
・ アドルフ・ティエール
・ アドルフ・ディックフェルト
・ アドルフ・ドイチュ
・ アドルフ・ドイッチェ
・ アドルフ・ドイッチュ


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

アドルフ・チェフ : ウィキペディア日本語版
アドルフ・チェフ

アドルフ・チェフ(、1841年12月11日 - 1903年12月27日)は、チェコ〔存命時は、1867年まではオーストリア帝国、それ以降はオーストリア=ハンガリー帝国。〕の指揮者
アントニーン・レオポルト・ドヴォジャークベドジフ・スメタナズデニェク・フィビフら、チェコ(チェコ国民楽派)を代表する作曲家の数々の作品の初演で指揮を担当している。特に、ドヴォジャークの作品では、交響曲第2番第5番第6番や、4本のオペラスターバト・マーテルなど数々の作品の初演で指揮を担当している。また、スメタナの連作交響詩わが祖国』、4本のオペラもチェフが初演を担当している。
また、これらに加えて、チェフはピョートル・イリイチ・チャイコフスキーの2本のオペラのロシア国外初上演や、ジャック・オッフェンバックの7本のオペレッタのチェコ初上演などでも指揮を担当している。
このように、指揮者として功績を残しているチェフであるが、指揮者だけでなく、バス歌手や、リブレット翻訳家としても活動していた。
== 経歴 ==
アドルフ・チェフは、1841年12月11日オーストリア帝国(現・チェコ)のプラハの南に位置する街・で、歌唱教師の息子として生まれた。出生名は、アドルフ・ヤン・アントニーン・タウシク ()。兄弟に、後に歌手として活動するカレル・チェフがいる。チェフは音楽家になる前は、プラハでエンジニアになる勉強をしていた。1862年より、仮劇場聖歌隊指揮者兼副指揮者となった。同劇場でチェフは、ジュゼッペ・ヴェルディの『イル・トロヴァトーレ』、ガエターノ・ドニゼッティの『ベリザーリオ』、ジョアキーノ・ロッシーニの『オテッロ』、アルベルト・ロルツィングの『ロシア皇帝と船大工』、ジャコモ・マイアベーアの『ディノラ』、フリードリッヒ・フォン・フロトーの『マルタ』や『アレッサンドロ・ストラデッラ』といったオペラの指揮を担当した〔ceskyhudebnislovnik.cz 〕。1862年から1866年までは、バス歌手としても活動しており、オペラ中の小さなソロを担当している。例えば、『セビリアの理髪師』(ロッシーニ)のバジリオ、『ユグノー教徒』(マイアベーア)のMéru、『グラナダの夜営』(コンラディン・クロイツァー)のペドロ、『イル・トロヴァトーレ』(ヴェルディ)のルイスなどの役をこなしている〔。1864年には、ウジェーヌ・スクリーブが書いた『ユダヤの女』(ジャック・アレヴィ)のリブレットチェコ語に翻訳したり、ジャック・オッフェンバックの『地獄のオルフェ』のチェコ初演も行っている〔。
1865年から1866年の間、オロモウツのチェコ劇場に代理指揮者として赴任していた。1867年になって、仮劇場に戻る。そこで、主にコミックオペラの指揮によって、チェフの名は徐々に有名になった。チェフは、オッフェンバックの『盗賊』(1870年)、『La Princesse de Trébizonde』(1871年)、『雪玉』(1872年)、『Les braconniers』、『青ひげ』(1874年)、『美しきエレーヌ』(1875年)の指揮をしている〔。
1873年には、ロベルト・シューマンの『交響曲第3番』のプラハ初演で指揮している〔。
1874年夏に、仮劇場の芸術監督を務めていたベドジフ・スメタナが体調を崩し、仕事が出来なくなると、チェフはスメタナの代理として指揮台に立った。スメタナが同年秋に正式に仮劇場から退くと、後任にはスメタナと激しく対立していたヤン・ネポムク・マイールが復帰する形で就任した〔スメタナが仮劇場の指揮者になる前、仮劇場の首席指揮者であった。〕。
チェフは、1875年4月4日、スメタナの『ヴルタヴァ』の初演を指揮を担当した〔Colorado Public Radio 〕〔Kennedy Center 〕。同曲は、後に全6曲からなる連作交響詩わが祖国』の第2曲となる楽曲で、1882年に全曲通しての初演が行われた。この初演時もチェフは指揮者としてステージに立った。
1876年には、アントニーン・レオポルト・ドヴォジャークのオペラ『プルジェデフラ・ヴァンダ』を初演し、12月18日には『弦楽セレナーデ』も初演した〔Brandon Hill Chamber Orchestra 〕。これと同じコンサート(もしくは1877年3月17日)〔Cincinnati Symphony Orchestra 〕 に、スメタナの交響詩『シャールカ』を初演している〔http://culturaldistrict.org/system/assets/5935/original/Smetana.pdf〕 。同曲は、『わが祖国』の第3曲となる楽曲である。
チェフは、この時期にスメタナのオペラの初演でも指揮を行っており、『口づけ』(1876年11月7日)、『秘密』(1878年11月18日)の初演で指揮をしている。加えて、『二人のやもめ』の改訂版初演(1878年3月17日)でも指揮者を務めている〔〔David M Greene, ''Greene's Biographical Encyclopedia of Composers'' 〕。
ドヴォジャークは、1876年の8月から9月の間に、『ピアノ協奏曲』を作曲した。この楽曲は、カレル・スラフコフスキーの依頼で作曲され、初演時はスラフコフスキーのピアノで行われた。この時、チェフが指揮をしている〔ivanmoravec.net 〕。1879年3月25日、ドヴォジャークの『交響曲第5番』、4月23日に『祝典行進曲 ハ長調』の初演も行っている〔IMSLP 〕。更には、同年5月16日には、ドヴォジャークの『チェコ組曲』を初演〔Classical Archives 〕〔allmusic 〕。このコンサートでは、『スラヴ舞曲第1集 第1番、第2番、第4番』の管弦楽版初演も行っている〔Kennedy Center 〕〔Pine Bluff Symphony 〕。
1880年12月23日には、プラハの音楽芸術協会の定期演奏会で、ドヴォジャーク初の宗教をテーマにした楽曲である『スターバト・マーテル』を初演した。
ドヴォジャークの『交響曲第6番』の上演は、トラブルが原因で、チェフに初演の指揮が回ってきた。元々、ドヴォジャークは同曲の作曲を依頼したハンス・リヒターに献呈した。そして当初は、リヒターが1880年12月末にウィーン・フィルハーモニー管弦楽団と初演する計画であった。ところが、リヒターが私生活において事情が出来たこと、当時のウィーンにおける反チェコ感情などがあったこと、更にはドヴォジャークが事実上ウィーンでは無名の存在であったこと(当時、ドヴォジャークの交響曲で出版されたものは無かった)などの事情が合わさり、何度も延期されることとなった。結局、ドヴォジャークは、チェフの初演の申し出に応じ、1881年3月25日にプラハで同曲は初演、チェフが指揮した。最終的に、ウィーンでは1883年まで演奏されることはなく、リヒターの指揮ではなかった。リヒター自身はこの曲の指揮を何度も行ったが、ウィーンで指揮することは一度もなかった〔Michael Steinberg, ''The Symphony: A Listener's Guide'' 〕〔〔〔Naxos 〕〔Kennedy Center 〕。
チェフが所属していた仮劇場は、1881年6月11日国民劇場が開場し、チェフは仮劇場から引き続き国民劇場に所属することになった。国民劇場開場時のこけら落としでは、スメタナの『リブシェ』が上演され、チェフが指揮を行っている〔 。翌1882年10月29日には、スメタナのオペラ『悪魔の壁』を初演。ただし、このオペラの初演は、オペラ自体の難しさに加えて、リハーサル不足なども相まって失敗に終わっている。このオペラの初演の失敗から数日後、11月5日には、スメタナの連作交響詩『わが祖国』の全6曲通しての初演で指揮棒を振るった〔〔quintessentialruminations 〕〔Radio Praha 〕。この初演は成功を収めている。
1882年7月28日、チェフはピョートル・イリイチ・チャイコフスキーのオペラのロシア国外初演、『オルレアンの少女』のチェコ初演でも指揮を行っている〔Tchaikovsky Research 〕。
1883年に、チェフは仮劇場〔国民劇場は会場から間もなく火災により焼失し、1883年末に再開場した。その焼失から再開場までの間、一度は国民劇場内に吸収された仮劇場が、別の場所に同名で復活し、活動していた。〕(その後、国民劇場)の首席指揮者となり、1900年までその地位にあった〔John Warrack ed, ''Concise Oxford Dictionary of Opera'' 〕。
1884年3月28日ズデニェク・フィビフのオペラ『メッシーナの花嫁』を初演。1885年には、リヒャルト・ヴァーグナーのオペラ『ローエングリン』を国民劇場初上演〔。チェフは、この後、1894年にヴァーグナーの『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の国民劇場初上演でも指揮をしている。
1887年6月15日、ドヴォジャークのオペラ『王様と炭焼き』改訂3版の初演をしている〔〕。
同年11月2日ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』世界初演100年祭でも指揮している〔。
1888年3月、チェフはドヴォジャークの『交響曲第2番』を初演。同曲は1865年に完成していたが、その際には初演されることなく、いくらか改訂をくわえて、初演された〔Challenge Records 〕。この初演が、ドヴォジャーク存命中に行われた『交響曲第2番』の唯一の上演であった。この初演で、チェフはドヴォジャークの交響曲を3曲初演したことになり、結果的にドヴォジャークの交響曲を最も多く初演した指揮者となった〔チェフは、『交響曲第2番』、『交響曲第5番』、『交響曲第6番』の初演で指揮した。この他のドヴォジャークの交響曲の初演については、『交響曲第7番』、『交響曲第8番』がドヴォジャーク自身が指揮し、『交響曲第3番』、『交響曲第4番』がベドジフ・スメタナ、『交響曲第9番『新世界より』』がアントン・ザイドル、『交響曲第1番『ズロニツェの鐘』』がの指揮の下、それぞれ初演された〕。
チェフは、チャイコフスキーのオペラ『エフゲニー・オネーギン』のチェコ初上演のために、オーケストラの練習で指揮を行っている。これは、同オペラのロシア国外初上演でもあり、台本はマリエ・チェルヴィンコヴァー=リエグロヴァーによってチェコ語に翻訳されたものを使用した。ただし、1888年12月6日のチェコ初上演では、指揮を作曲者でもあるチャイコフスキーが担っている。1892年10月12日には、チャイコフスキーのオペラ『スペードの女王』(チェコ語翻訳版)の国民劇場でのチェコ初上演でも指揮を行っている。この初上演は作曲者であるチャイコフスキーも観劇している〔。
1893年には、スメタナのオペラ『売られた花嫁』をベルリンで初上演し、大きな成功を収めた〔。
1897年12月28日、フィビフのオペラ『シャールカ』の初演を国民劇場で行う〔Supraphon 〕。1898年6月19日、ドヴォジャークのオペラ『ジャコバン党員』改訂版の初演を行った〔〕。同年8月6日には、の劇『ラドゥースとマフレナ』の付随音楽(ヨセフ・スク作曲)を初演〔。1899年4月23日、ドヴォジャークのオペラ『悪魔とカーチャ』を初演した。
1903年12月27日にプラハで死去。。遺体は、プラハのに埋葬された〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「アドルフ・チェフ」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.