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1961年のロードレース世界選手権 : ミニ英和和英辞書
1961年のロードレース世界選手権[1961ねんのろーどれーすせかいせんしゅけん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ねん, とし]
  1. (n-adv,n) year 2. age 
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [よ, せい]
 【名詞】 1. world 2. society 3. age 4. generation 
世界 : [せかい]
 【名詞】 1. the world 2. society 3. the universe 
世界選手権 : [せかいせんしゅけん]
 (n) world (an international) championship (title)
: [せん]
 【名詞】 1. (1) selection 2. choice 3. election 4. (2) compilation 5. editing 
選手 : [せんしゅ]
 【名詞】 1. (1) player (in game) 2. (2) team 
選手権 : [せんしゅけん]
 【名詞】 1. leading 2. top-rank 3. champion 
: [て]
 【名詞】 1. hand 
: [けん, ごん]
  1. (n,n-suf) authority 2. the right (to do something) 

1961年のロードレース世界選手権 : ウィキペディア日本語版
1961年のロードレース世界選手権[1961ねんのろーどれーすせかいせんしゅけん]

1961年のロードレース世界選手権は、FIMロードレース世界選手権の第13回大会である。4月にモンジュイック・サーキットで開催されたスペインGPで開幕し、ブエノスアイレスの最終戦アルゼンチンGPまで、全11戦で争われた。
== シーズン概要 ==
この年はスペインGPスウェーデンGPが世界選手権に復帰し、東ドイツGPアルゼンチンGPが新たにカレンダーに加わって大会数が一気に11戦にまで増加した。ただし小排気量クラスのレースに人気の集まっていたスペインでは350ccと500ccのレースは行われず、この年全11レースが開催されたのは125ccと250ccクラスだけだった。また最終戦アルゼンチンGPは、初めてヨーロッパ以外の国で開催されたグランプリである。
この年の1月、グランプリを支配し続けてきたMVアグスタが突如ワークスチームを撤退させることを発表した。アグスタ伯爵は当初はレースからの完全撤退を考えていたが、4輪フェラーリと並ぶイタリアのシンボルとなっていたMVアグスタのマシンがサーキットから消えることをイタリア国民が許さず、イタリアのモーターサイクル協会の介入によって1960年型のマシンが前年に125cc・250cc・350ccの3クラスでランキング2位となったゲイリー・ホッキングに貸し出されることになった〔『THE GRAND PRIX MOTORCYCLE』(p.52)〕。マシンのMVアグスタのエンブレムの横には"Privato"の文字が書かれホッキングはプライベーターとしての出場となったが、500ccと350ccクラスにおいてはほとんど敵なしだったMVアグスタの4気筒の強さは前年までと変わることがなかった〔『二輪グランプリ60年史』(p.58 - p.59)〕。
MVアグスタのワークスマシンがいなくなった小排気量クラスは、初出場からわずか3年目のホンダが支配するクラスとなった。ホンダワークスと契約したトム・フィリスジム・レッドマンに加え、マイク・ヘイルウッドルイジ・タベリといった有力なライダー達がこぞってホンダのマシンを選んだこともあって、125ccと250ccの両クラスではランキング10位までの半数以上をホンダに乗るライダーが占めることになったのである。ホンダはこの勢いをもって翌シーズンからは大排気量クラスへの進出を果たす。対照的に前年のマン島でグランプリデビューしたスズキは、この年からホンダと同様に125ccと250ccクラスへの全戦参戦を開始するが、トラブル続きでマシンの戦闘力は上がらず、ポイントを獲得することなくシーズンを終えた〔『浅間から世界GPへの道』(2008年、八重洲出版)ISBN 978-4-86144-115-8(p.99)〕。
この年に起きたもっともセンセーショナルな事件は、小排気量クラスで唯一ホンダを脅かす存在となっていたMZのエースライダー、エルンスト・デグナー亡命である。東西両陣営の対立が不安定な状況となり最初のベルリンの壁が作られたこの年、125ccクラスのタイトルを最後まで争っていたデグナーだったが、タイトルのかかった最終戦を目前にしてスウェーデンGPの会場から家族とともに行方不明となった。デンマーク行きのフェリー乗り場へ向かったデグナーは密かにNATOの職員と接触し、西ドイツへの亡命を望んだのである〔。前年のマン島で面識のあったスズキを頼ったデグナーは11月には日本に渡ってスズキと契約を交わし、2ストロークのスペシャリストであるデグナーを得たスズキのマシンは冬の間に劇的な進歩を遂げることになる。その一方でこの事件以降、東ドイツのライダーが同国内や隣国で同じ社会主義陣営チェコスロバキア以外でのレースを走ることはほとんどなくなった〔『二輪グランプリ60年史』(p.65)〕。
もうひとつ、後に大きな意味を持つことになるこの年の出来事が、日本からの第3のメーカー、ヤマハのグランプリ参戦である。すでに北米において海外でのレースを経験していたヤマハは、満を持してこの年のフランスGPから125ccと250ccクラスにロータリーディスクバルブを持つ2ストロークのワークスマシンを送り込んだ〔『世界GP制覇と夢の終焉』 - WGP参戦50周年記念スペシャルサイト|ヤマハ発動機株式会社 〕。125ccクラスではポイントを獲得することはできなかったが、250ccクラスではアルゼンチンGPでの伊藤史朗の4位を最高位に出場した5戦全てでグランプリでは先輩となるスズキを超える成績を残し、コンストラクターズポイント7点を獲得した〔『浅間から世界GPへの道』(p.101)〕〔Race Archive(1961年) - WGP参戦50周年記念スペシャルサイト|ヤマハ発動機株式会社 〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「1961年のロードレース世界選手権」の詳細全文を読む




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