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伊藤史朗 : ミニ英和和英辞書
伊藤史朗[いとう ふみお]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ふじ]
 【名詞】 1. wisteria 

伊藤史朗 : ウィキペディア日本語版
伊藤史朗[いとう ふみお]

伊藤 史朗 (いとう ふみお、1939年10月10日 -1991年3月10日 ) は、日本の元レーシングライダー。16歳の若さで浅間火山レースに出場しデビューウインを果たし、世界GPでも活躍を見せ、天才ライダーと評された。
なお名の「史朗」は「ふみお」と読むのが正しいが、親しい関係者は「しろう」と呼ぶ場合が多い。
== 略歴 ==
東京都大田区大森出身。父は音楽家の伊藤昇。「史朗」という名は、父の師である山田耕筰が名付けたという。
1955年11月に開催された第1回全日本オートバイ耐久ロードレース(第1回浅間高原(火山)レース)の250ccクラスに、ライラックSYで出場。伊藤は当時16歳で、これがデビュー戦だったが、実績ある選手を抑えて優勝を果たした。
1956年ヤマハワークス・チームに加入するが、全日本耐久ロードレース(浅間火山レース)の延期を受け、一時はヤマハを離れ浜松オートレースの選手として活動した。
1957年の第2回全日本オートバイ耐久ロードレース(第2回浅間火山レース)の250ccクラスに、ヤマハワークスライダーとして出場し、リタイヤ。
1958年5月、アメリカはカリフォルニア州のカタリナ島で開催されたカタリナGP(世界GP戦ではない)にヤマハワークスライダーとして初出場。ヤマハも伊藤も初の海外レースだったが、6位に入賞する。同年8月の第1回全日本クラブマンレースの国際オープンクラスに、バルコム貿易(BMWの輸入元)のBMWで出場し、6位。
1959年の第3回全日本オートバイ耐久ロードレース(第3回浅間火山レース)では、バルコム貿易のBMWに乗って500ccクラスで優勝。
1960年ロードレース世界選手権(世界GP)に初出場。マシンはBMW-RS500。世界GP500ccクラスへの出場は日本人初。バルコム貿易(BMW輸入元)のヘルマン・リンナー(ドイツのBMW本社から派遣されていた)が伊藤の実力を評価し、BMW本社に交渉して前年度のワークスマシン・RS(レンシュポルト)に乗るチャンスを与えたという経緯がある。BMWのワークス活動は前年までで終了していたため、伊藤は個人出場(プライベート)という扱いになっている。
1961年にヤマハが世界GPに初参戦。伊藤はワークスライダーとして世界GPを転戦し、125ccと250ccの両クラスに出場した。
1962年はヤマハが世界GPに出場しなかったため、伊藤も世界GPには参戦していない。
1963年にヤマハが世界GP出場を再開したのに合わせ、再び各地を転戦。伊藤はキャリアのピークを迎え、ベルギーGPで優勝した(これはヤマハ初の世界GP優勝でもある)。また、その他に2位入賞3回という成績を残し、わずか4戦限定の出場にもかかわらず、見事250ccクラス世界ランキング3位に輝いた。
1964年の年頭に行われたマレーシアGP(世界GP戦ではない)でトップを走行中に転倒し頭部を強打。それ以降、成績は低迷する。この前後にプリンス自動車と契約し、4輪レース出場を計画していたが、4輪の実戦には出場しなかった。歌手として数枚のレコードも発表している。
1965年に銃刀法違反(拳銃の密輸や所持)の容疑で逮捕された。また薬物依存の傾向があるなど、私生活や素行に問題があったと指摘されている〔「浅間からスズカまで」酒井文人著、八重洲出版、1990年〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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