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算道家 : ウィキペディア日本語版
算道[さんどう]
算道(さんどう)とは、日本律令制大学寮において、算術を研究する学科。
== 概要 ==

=== 成立期 ===
大宝律令による大学寮設立時から存在した学科である。当初は明確な学科の種別はなかった〔大学寮において学科が明確にされる(「算道」の呼称使用の開始)のは、平安時代の貞観年間とされている。それ以前は「算科」の呼称が用いられていたと考えられているが、本項目では「算道」で記述を統一させる。〕が、一般の官人を育成するために設けられた本科に相当する儒教の講義(後の明経道にあたる)以外には、儒教経典の原典をそのまま筆記するための書道とそのまま発音するための音道は本科の補完するためのものであった。それに対して算道の扱う分野は儒教とは直接的な関連性はなく、計算や測量などの技術系官人の育成を行うことを目的としていたことから、唯一本科から独立した存在であったのが算道であった(ただし、後述のようにこうした通説に対する批判もある)。
大学寮には算道を教授する算博士(さんはかせ、従七位上相当・2名)と学生である算生(さんしょう、30名)で構成されていた。これは国子監に置かれた算学と同数であり、教授として博士1名以外に助教2名及び複数名の直講が置かれて、学生も400名もいた本科と比べると小さいものの、唐の国子監の規模は日本の大学寮と比べて大きいこと、唐の算学博士は従九品下と低い地位に置かれたことを考えれば、設置当初の地位は一概に低いとは言えなかったとされている。その後、天平2年(730年)からは算博士候補者となる特別給費生として算得業生2名が算生の中から選抜された。また、天平宝字元年(757年)からは陰陽寮暦道を学ぶ暦生の中から暦学に必要な数学を学ぶために算道を兼修する暦算生が別枠として設置された。ただし、近年においてこうした理解に対して批判もある。すなわち、実際に算博士の活動を示す記録が奈良時代において活動することが出来ず、算術関係の記録に登場するのは暦道出身者であることが指摘されている〔例えば、『続日本紀』養老5年正月甲戌(1月27日)条に「算術の名手」として表彰を受けた山口忌寸田主・志斐連三田次・私部首石村はいずれも9年後の天平2年3月辛亥(27日)条にて、弟子を取って七曜と頒暦について教えるように命じられている。特に山口は和銅2年に作成された2つの文書に「陰陽暦博士(弘福寺水陸田目録)」「陰陽寮暦博士(観世音寺大宝四年縁起)」という署名を残している。〕。更に天平宝字元年の暦算生の設置は藤原仲麻呂政権による算科の陰陽寮(太史局)暦科への統合であったとする説〔細井浩志「奈良時代における暦算教育制度」『日本歴史』677号、2004年10月〕もあり、奈良時代段階では実際には暦博士が算道を教授していたとする見方もある〔大隅、2010年〕。
大学寮の中には算道の講義と算生の寄宿のための施設である算道院(さんどういん)が置かれていた。平安京遷都後は、大学寮敷地内の明経道の施設である明経道院の南、明法道の施設である明法道院の北にあったとされている。〔明法道(当初は明法科)は神亀5年(728年)に文章科(後の紀伝道)とともに発足した新興の学科である。〕なお、現存する算生に関する記録を見る限りでは、渡来人系の氏族に属する者が多かったとされている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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