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相馬事件 : ウィキペディア日本語版
相馬事件[そうまじけん]
相馬事件(そうまじけん)とは、明治年間に起こったお家騒動の一つ。精神病患者への処遇や、新興新聞によるセンセーショナルな報道の是非を巡り、世間へ大きな影響を与えた。
==経緯==
中村藩主、相馬誠胤(そうまともたね)の統合失調症推定)の症状が悪化したため、1879年に家族が宮内省に自宅監禁を申し入れ、以後自宅で監禁、後に癲狂院(現在の精神科病院に相当)へ入院。
1883年、旧藩士の錦織剛清(にしごりたけきよ)が主君病状に疑いを持ち、家族による不当監禁であるとして家令・志賀直道(志賀直哉の祖父)ら関係者を告発したことから事件が表面化した。告発を行った錦織に対し、世間からは忠義者として同情が集まった。当時は精神病の診断も未熟であり、高名な大学教授等による精神病の診断がまちまちの結果となった。正常との判断を下す医師もおり、混乱の度合いが増すこととなった。
1887年、錦織が相馬誠胤が入院していた東京府癲狂院に侵入。相馬誠胤の身柄の奪取に一旦は成功するものの一週間で逮捕。錦織は、家宅侵入罪に問われ禁錮処分を受けるとともに、偏執的な行動が批判を受ける。1892年、相馬誠胤が病死。錦織はこれを毒殺によるものとし、1893年、再び相馬家の関係者を告訴、遺体を発掘して毒殺説を裏付けようとした。しかし最終的に、死因が毒殺とは判定できなかった。
1895年、錦織が相馬家側より誣告罪で訴えられ、後に有罪が確定。事件は収まりを見せた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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