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浪江原発 : ウィキペディア日本語版
浪江・小高原子力発電所[なみえ おだかげんしりょくはつでんしょ]

浪江・小高原子力発電所(なみえ・おだかげんしりょくはつでんしょ)は、福島県南相馬市小高区及び福島県双葉郡浪江町に建設が予定されていた東北電力原子力発電所である。
== 歴史 ==
本発電所の計画が持ち上がる以前の1960年頃、福島県は原子力発電所の立地点調査を実施し、その候補地のひとつとして浪江町を挙げていたことがある。しかしこの時は双葉町大熊町に跨る地点に原子力発電所を建設することとなり、福島第一原子力発電所として運転を開始した〔福島第一の候補地として浪江町が挙げられた経緯については下記
「東電・福島原子力発電所の用地交渉報告」『用地補償実務例(Ⅰ)』日本ダム協会 1968年〕。
その数年後、福島第一の候補地において用地取得に伴う補償が順調に進展する状況を横目に見ながら、再び町議会議員達を中心として原子力発電所誘致運動が起こり、東北電力も自前の原子力発電所を計画しつつあった。東北電力は宮城県女川町にも原子力発電所を計画しており、これは後年女川原子力発電所として運転を開始することになるが、浪江町の誘致運動は女川と誘致合戦を行っており、1967年5月25日に浪江町議会は原子力発電所の誘致を決定した。しかし、一般への広報については配慮を欠いたと反対派の座談会では指摘されており、最初に一般町民が誘致計画を知ったのは1968年1月5日に木村守江福島県知事がテレビで年頭挨拶を行った時だという〔座談会「立地政策にもの申す」『原子力工業』1982年1月号〕。
町民の一部はこの動きに反応し、1968年1月中には地元棚塩地区出身の週刊誌記者・舛倉隆が住む140戸の集落をまとめた反対同盟が結成された。問題点のひとつは当時の環境調査(経済産業省が電源開発調整審議会を設置する以前のものであり、制度的には環境アセスメントのような法制化もなかった)に放射能の影響予測が含まれていない等、火力発電の環境調査と代わり映えのしない内容であったことだという。
一方で、当時棚塩地区では自民党支持者ばかりであり、反対運動と言っても社会党や共産党は「よそ者」であった。従って、自民党同士で分裂しての活動となり、その方針は「原発には土地を売らない」「町、県、電力とは話し合わない」「他党とは協力しない」となった。
〔ただし、舛倉は日本社会党飛鳥田一雄時代、現状肯定的な姿勢をかまえた際、「これまで通り社会党は原発反対を貫いてくれると信じている人は多いのです。自民党政権崩壊の日を想定して、社会党が連合政権樹立のために各党と政策調整を進めるのは当然のことです。しかし、戦争反対と原発反対の二つは、ぜひ守り通して欲しいのです」と原子力発電所以外の政治主張や特定の党派の主張にも注文をつけていた。
本田宏「日本の原子力政治過程(4)-連合形成と紛争管理- 」『北大法学論集』54(4)2003年10月9日 P370〕〔。
しかし反対派は、勉強を行い、舛倉によれば「原爆といういわば“悪魔”から、原発という“落とし子”が生れようとしていた。」という認識に至った。また、酒や女といったスキャンダル暴露合戦を賛成派と繰り広げ、「東北電力がM資金を利用して原発を建設しようとしている」
「石油枯渇論はCIAの世論操作による虚構」
「地域の委員関係者に東北電力から裏金が出ているという噂」などを世に訴えたという。
また、原子力発電所を推進する県は1973年に開発公社を地元に設けて人員を常駐させ、反対派の切り崩しを図った。気象観測塔の設置の際、浦尻集落が賛成したため、億単位の協力金が集落にもたらされ、地域が賛否で分裂するなど、反対運動から脱落する者が出る出来事もあった。しかし、当初1977年の着工を予定していた計画は毎年繰り延べされ、1982年の対談の時点でも用地買収率は24%に止まったという〔。
1970年代に立てられた当初の計画では、発電所施設は専ら浪江町側にあり、冷却水取水方式は福島第一、第二と同じ港湾方式で、原子炉のユニットは4基描かれている。発電施設の一定の周囲は無人地帯とするため、一部が小高町にかかっている〔座談会「立地政策にもの申す」『原子力工業』1982年1月号 P23〕。
舛倉は自身町や地域で悪者呼ばわりされたと語っている。浪江町では他の発電所の建設時に経済波及効果があり、宿泊施設、町による水道などの社会資本投資が行われたが、これは原子力発電所建設を見越した先行投資でもあった。このため建設の遅延は、これら商工業者に莫大な損失を強いるものとなった。原子力発電所の建設が進まない中、近隣自治体に新地発電所原町火力発電所などが建設されていった。
1980年代末時点で反対運動は17名まで減ったもの、団結力を高め予定地に共同登記をしていた。1991年、反対運動のリーダーであった舛倉は著書を出版し、毎年計画が繰り延べされていく状況を根拠として勝利宣言を行った。また、高木との対談で「一番の味方は(原発の)事故だ」と発言し、高木から「事故が起こった方がいいってことになっちゃうもんな」とたしなめられている。
その後も1999年の雑誌記事では立地状況、改正環境アセスメントを考慮し、運開は2008年度を計画していた〔「東北電力 原子力発電事業の現況」『建設界』1999年7月号 P32〕。その後、2007年の『政経人』2007年7月号記事によれば、当時の東北電力は産業需要の伸びが好調で最大電力も伸びが続いていたが、本発電所については着工が2011年、運開予定が2018年となり〔「躍動する強固地盤で飛躍する東北電力-浪江・小高は18年運開を目指す-」『政経人』2007年7月号〕、更に繰り延べされて現在に至る。なお、2007年に立てられた2011年までの中期経営計画によれば、経年劣化した火力7基の廃止・長期停止を決定しており、新規電源の開発を見据えていたが、その当面の代替はコンバインドサイクル発電を用いる仙台火力発電所4号機(44万6000kW、2010年6月運開予定)、新仙台火力発電所3号系列(95万kW、2013年7月運開予定)、上越火力発電所1号系列(144万kW、2023年運開)なども含めたものであった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「浪江・小高原子力発電所」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Namie-Odaka Nuclear Power Plant 」があります。



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