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大久保忠行 : ウィキペディア日本語版
大久保忠行[おおくぼ ただゆき]
大久保 忠行(おおくぼ ただゆき、生年不詳 - 元和3年7月6日1617年8月7日))は戦国時代から江戸時代の武士、治水家。宇津忠茂の五男。大久保忠俊大久保忠員の弟。妻は遠山氏の娘・伊可。通称は藤五郎、主水(もんと)。
三河国上和田の武士。徳川家康に仕え、永禄3年(1560年)に三河国宝飯郡赤坂郷で領地300石を与えられる〔阿部正信編『駿国雑志』吉見書店、1911年 316頁〕。永禄6年(1563年)、三河一向一揆に三河大久保党三十六騎の一人として出陣するが、鉄砲の弾が腰に当たって落馬・負傷し、以後歩行が不自由となる。
これにより実質、侍としてのいわゆる「槍働き」ができなくなり、戦役を免除され三河国上和田に住んだ。何処で覚えたのか定かではないが、忠行は菓子類の制作ができ、この技術により家康の陣営に茶菓(餅)を献上する役目、いわゆる菓子司となった。忠行の作った餅は駿河餅、ないしは三河餅と呼ばれ、この餅を含めた各種の菓子は家康の嗜好に合ったらしく、度々忠行にこれを求めていた、また、家康は毒殺を恐れて普段から献上される餅を食べなかったが、忠行から献上された際には彼を信頼して食べていた〔『大日本人名辭書』経済雑誌社、1896年 443-444頁〕、などの話が残る。
三方ヶ原の戦いの際には従軍する代わりに、出陣に際し六種の菓子を家康に献じ、その後それが家例となった〔『下谷区史』下谷区、1935年 1202頁〕。
== 神田上水 ==
天正18年(1590年)7月12日、江戸城下の上水工事の命を受ける〔「天正日記」〕。その後、約3か月で小石川目白台下の河流を神田方面に通し、これは後の神田上水の元となったとされている。また、この功績により家康から「主水」の名を与えられたが、水が濁ることを嫌って「もんど」ではなく「もんと」と発音するように命じられた〔朝日日本歴史人物事典 〕。
元和3年(1617年)7月6日死去。墓所は東京都台東区谷中瑞輪寺、戒名は清浄院蓮来日富。実子は無く、甥の忠元(兄の忠員の子)を養子とした〔阿部正信編『駿国雑志』吉見書店、1911年 318頁〕。
主水の子孫は代々「大久保主水」を名乗り、幕府御用達の菓子司となった。江戸城内での行事に使用する菓子類の制作時には、歴代の大久保主水が責任者となり采配した。幕末の大久保主水は徳川宗家の静岡移動にも従い、娘を旧幕臣の重鎮で同族の大久保一翁の子息の嫁としている。
大正13年(1924年)2月、贈従五位〔『贈位諸賢伝』第1巻 国友社、1927年 199頁〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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