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九条頼嗣 : ウィキペディア日本語版
藤原頼嗣

藤原 頼嗣(ふじわら の よりつぐ)は、鎌倉幕府5代将軍。五摂家のひとつ、九条家の出身の摂家将軍
== 生涯 ==
鎌倉幕府4代将軍藤原頼経藤原親能の娘・大宮殿の子として鎌倉で生まれる。
寛元2年(1244年)、当時の執権北条経時烏帽子親として元服、父頼経の譲りによりわずか6歳で将軍に就任した。翌寛元3年(1245年)、7歳で16歳の北条経時の妹檜皮姫を正室として迎える(檜皮姫は宝治元年(1247年)死去)。寛元4年(1246年)7月、宮騒動により父頼経が京へ追放され、翌宝治元年(1247年)6月の宝治合戦で将軍家を擁する三浦氏らが滅亡した後も、頼嗣は将軍として鎌倉に留まった。しかし建長3年(1251年)、了行法師らの謀叛事件に頼経が関係したとして、幕府は後嵯峨上皇の皇子宗尊親王を新将軍とすることに決定。翌年、頼嗣は14歳で将軍職を解任され、母大宮殿とともに京へ追放された。同年、祖父の九条道家も関与を疑われ間もなく死去した。
4年後の康元元年(1256年)8月に父頼経が死去し、続いて頼嗣も9月25日、赤斑瘡により死去。享年18。
結果的に父と共に北条家とは対立関係となったが、執権北条時頼は頼嗣の教育に熱心であり、中原師連清原教隆が学問を、小山長村安達義景三浦光盛三浦盛時が武術を、それぞれ頼嗣に教えるように推挙している〔高橋・100頁〕。この他にも、御家人達の若い息子達から、好学の子らを、頼嗣の学友として近侍させようと考え、二階堂行方武藤景頼にそうした人材を集めるよう手配している〔高橋・100頁〕。頼嗣も勉学への意欲は高く、1250年2月には帝王学の教科書である『帝範』を教材とした勉強会を頼嗣は行い、時頼や清原教隆が参加していることが『吾妻鏡』に書かれている〔高橋・100頁〕。この後、時頼は頼嗣に『貞観政要』を書写したものを送っている。頼嗣に貞観政要を学んでほしいという願いから進呈したものと考えられる〔高橋・100頁〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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