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ナイススの戦い : ウィキペディア日本語版
ナイススの戦い[ないすすのたたかい]

ナイススの戦い(ナイススのたたかい、英:Battle of Naissus)は、268年または269年にナイスス(現在のセルビアニシュ)付近で皇帝ガッリエヌス(またはクラウディウス2世)率いるローマ帝国軍がゴート族連合軍を打ち破った戦いである。この戦いやその元となった侵略は3世紀の危機の歴史上重要な部分を占めている。
ローマ側の大勝に終わり、残党狩りと皇帝アウレリアヌスの精力的な努力により、その後数十年に渡ってバルカン半島においてゲルマン民族を排除することに成功した。
== 文献 ==
3世紀のローマ史の文献によくあるように、ナイススの戦いに関する物事の経緯を再構築することは非常に困難である。この時代の現存する記録としては、ゾシモスの『新しい歴史』、ゾナラスの『歴史概略』、ゲオルギオス・シュンケロスの『年代誌選集』、アテナイのデクシッポスの現存しない著作に基づいていると見られる『ローマ皇帝群像』がある。デクシッポスの記述は4世紀ごろ成立した『ローマ皇帝群像』に部分的に引用され、それが9世紀の東ローマ帝国で編集されている〔David S. Potter, p.232–233〕。デクシッポスは当時の有名な歴史家だが、現代の歴史家 David S. Potter はこれを「不十分な」文献だとしている〔David S. Potter, p.232–234〕。そして困ったことに、デクシッポスの記述に基づいた資料はナイススの戦いについて他の文献とは全くことなる解釈を提供している〔John Bray, p.283, David S. Potter, p.641–642, n.4.〕。また、コンスタンティヌス朝によるプロパガンダも事態の把握を困難にしている。というのもコンスタンティヌス朝の祖先はクラウディウス2世とされており、その治世の記憶を汚さないために、諸悪の根源はガッリエヌス帝にあったとする傾向があったためである〔David S. Potter, p.266〕。
結果として、侵入の回数、事象の順序、どの皇帝の治世下で起きたことなのかといった点でも議論の余地がある〔John Bray, p.279. Also David S. Potter, p.263〕。したがって、この戦いが行われた際の皇帝が誰で、軍司令官が誰なのかという論争に決着がついていない。1939年に侵入は1回だったとする説を唱える Andreas Alföldi は、蛮族の侵入に立ち向かいナイススで勝利したのはガッリエヌス以外にありえないと示唆した〔''The Cambridge Ancient History'', vol 12, chapter 6, p.165–231, Cambridge University Press, 1939〕。この説は広く受け入れられたが、最近の学説ではクラウディウス2世が最終的に勝利を勝ち取ったとするのが普通である〔John Bray, p.284–285, Pat Southern, p.109. Also see Alaric Watson, p.215, David S. Potter, p.266, H. Wolfram, p.54〕。侵入が2回あったとする説もある。本項では後者の説に基づいて解説するが、記録には混乱が多く完全な再構築はできていないことに注意が必要である〔John Bray, p.286–288, Alaric Watson, p.216〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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