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ザラ・キルシュ : ウィキペディア日本語版
ザラ・キルシュ

ザラ・キルシュSarah Kirsch, 1935年4月16日 - 2013年5月5日 )は、ドイツ詩人。本名イングリート・ヘラ・イルメリンデ・キルシュ (Ingrid Hella Irmelinde Kirsch)、旧姓ベルンシュタイン(Bernstein)。
== 生涯 ==
1935年テューリンゲン地方のに生まれる。父は電気通信機械工だった。1937年以降の幼年期・青春期をで過ごす。彼女は自然への関心が強く、1954年から1958年までハレで生物学を学び、学士号を取得した。1958年に、詩人ライナー・キルシュと知り合い、1960年に彼と結婚。1968年に離婚した。
1960年以降、アンソロジーや雑誌に抒情詩を発表。この頃から使っているザラという筆名は、第三帝国ナチス・ドイツ)でのホロコーストに対する抗議の気持ちから選んだものである。1963年から65年まで、夫とともにライプツィヒにあるヨハネス・R・ベッヒャー文学研究所で学ぶ。1965年から夫ともにハレで文筆家として生活し、DDR作家連盟の一員となる。1965年、夫と共同で詩集『恐竜との対話』を出版。この詩集でFDJの芸術賞、エーリッヒ・ヴァイネルト・メダルを授与される。2年後の1967年には単著による最初の詩集『田舎滞在』が出版された。
1968年にライナー・キルシュと別れた後、東ベルリンへ引越し、1969年に息子モーリッツを生んだ(父はカール・ミッケル)。ここでジャーナリスト、ラジオ共同制作者、翻訳者として働く。1973年に詩集『魔法のことば』、ならびに散文作品集『豹女』と『山のように高い海の波』を発表。同年、DDR作家連盟の幹部になる。西ドイツで1年後、『それはこの奇妙な夏だった』というタイトルで選詩集が出版される。1976年、ヴォルフ・ビーアマンの市民権剥奪に対する抗議声明のトップに署名をしたことにより、ドイツ社会主義統一党とDDR作家連盟から除名される。その翌年の1977年に彼女は息子とともに西ベルリンへ移住。
1978年ドイツ連邦共和国のPENセンターのメンバー、ならびにローマヴィラ・マッシモ奨学生になる。1980年には、ギュンター・グラストーマス・ブラシュペーター・シュナイダーとともに、首相ヘルムート・シュミット宛の公開文書を執筆。1992年、ベルリン芸術アカデミーへの招聘を断った。1996年にはカッセル大学でのグリム兄弟教授職を引き受け、1996/97年にはフランクフルト・アム・マインヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ大学で客員講師をつとめる。西ベルリンを離れた後は、1981年から1983年5月まで、息子とともにローテンブルク(ヴュンメ)郡ボーテルで暮らし、そこで1984年に詩集『猫の生活』が出版された。
1983年以来、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州のに居住。2006年、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州の州首相から、教授という名誉称号を与えられる。1992年以来、ハンブルクの芸術自由アカデミーのメンバーである。
2013年5月5日病気によりハイデにて急死。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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