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サントメ・プリンシペの歴史 : ウィキペディア日本語版
サントメ・プリンシペの歴史[さんとめ ぷりんしぺのれきし]

サントメ・プリンシペの歴史(サントメ・プリンシペのれきし)では、サントメ・プリンシペ民主共和国歴史について述べる。15世紀まで無人島だったサントメ島プリンシペ島の両島には、15世紀末から16世紀初頭にかけてポルトガル人が入植し、白人入植者とアフリカ大陸から連行された黒人奴隷混血した人々や、ある時期に両島に上陸した人々の末裔によって、サトウキビコーヒーカカオなどの商品作物の栽培を軸に発達を遂げてきた。両島が独立したのは20世紀後半の1975年であり、それ以後独立国として存在している。
== ポルトガル植民地時代 ==

1469年アフリカの西端に位置する無人島であったサントメ島プリンシペ島ポルトガル人が初めて到来した。3年以上、この2つの無人島を探索した後、ポルトガルの航海者たちは、この島々がアフリカ本土への寄港地として好適であると結論した。こうして両島はポルトガルの植民地となった。
初めて入植に成功したのはポルトガルの下級貴族であったアルヴァロ・デ・カミニャアントニオ・カルネイロの二人であり、1490年代末のことであった〔デ・オリヴェイラ・マルケス/金七訳1(1981:200-201)〕。カミニャは1493年にサントメ島に入植し、ポルトガル王室(アヴィス王朝)から島の所有権を認められた。1510年にはプリンシペ島に貴族のジョルジェ・メロ率いる入植団が上陸した〔デ・オリヴェイラ・マルケス/金七訳1(1981:201)〕。初期の入植者はポルトガルからの流刑囚、職人、貧民からなり、彼らはキリスト教強制改宗させられたユダヤ人を伴っていた〔。入植者はほどなく島の火山灰質の土壌が、サトウキビ栽培に好適であることに気付いた。しかし、両島に入植したヨーロッパ出身者は熱帯気候に耐えられずに倒れていったため、フェルナンド・ポ島アフリカ大陸から黒人奴隷サトウキビ栽培と牧畜の為に導入された〔。ポルトガル出身の女性は両島には訪れなかったため、カーボベルデ諸島と同様に、数世代後には白人と黒人の混血ムラート)の支配層が築かれた〔。サントメ島には1504年に最初の教区が置かれ、1534年には司教区への昇格と共に市政に移行し、また両島は1522年カピタニアが廃止されて王領に戻り、ポルトガルの行政機構に編入された〔。
両島はアフリカとブラジルを結ぶ奴隷貿易の中継拠点としても栄えた〔。コンゴ王国国王アフォンソ1世は、サントメ島の領主フェルナンド・メロの強欲と、サントメ島にてコンゴ王国から連行された住民が奴隷として酷使されていることを憂慮し、ポルトガル王マヌエル1世に対して、同島を封土として引き渡すように要求した〔デビッドソン/内山訳(1987:145-146)〕。しかし、ポルトガルはこのコンゴ王の要求を無視したため、アフォンソ1世は1526年よりジョアン3世に宛てて幾度か手紙を書き、コンゴ王国を蝕む奴隷貿易を中止するように訴えた〔デビッドソン/内山訳(1987:146-148)〕〔小田(1986:28-29)〕。ポルトガル王がこの訴えを無視した為、コンゴ王アフォンソ1世はローマ教皇パウルス3世に手紙を送り、1535年に教皇パウルス3世から事態に善処する旨の返事を得たものの、実際にはカトリック教会による奴隷貿易への対策はなされなかった〔小田(1986:29-30)〕。
1570年代にサントメ島は世界有数の砂糖の産地となり、1602年には4万アロバ(約600万トン)の砂糖が生産された〔デ・オリヴェイラ・マルケス/金七訳2(1981:85)〕。しかし、ポルトガル領ブラジルとの砂糖生産の競合、オランダイギリス海賊の攻撃、奴隷反乱等の複合的な進行によってサントメ島は17世紀前半中に急速に衰退した〔デ・オリヴェイラ・マルケス/金七訳2(1981:85-86)〕。また、17世紀前半のポルトガル・オランダ戦争の最中にオランダがサントメ島に上陸したものの、1648年アンゴラからオランダ勢力を駆逐したサルヴァドル・コレイア・デ・サがサントメ島を奪回した〔デ・オリヴェイラ・マルケス/金七訳2(1981:86)〕。
18世紀にはサントメ島、プリンシペ島両島に対するポルトガル国王の統制は殆ど及ばず、また、フランスが数度に亘って両島を攻撃した〔デ・オリヴェイラ・マルケス/金七訳2(1981:159)〕。
1800年にブラジルからコーヒーが、1822年カカオが導入された後、主にポルトガル人の不在地主と外国資本からなる農場主が絶大な権力を握り奴隷を使役するプランテーション経営がなされ、1860年代以後両島の経済は急速に拡大、1842年に約18コントに過ぎなかった両島の輸出額は、1910年には8000コント以上に達した〔デ・オリヴェイラ・マルケス/金七訳3(1981:28-29)〕。
1842年にポルトガルはイギリスと奴隷貿易を廃止する条約を結び、1856年に奴隷の親から生まれた子の解放を規定する法律が、1869年2月25日ポルトガル帝国全域で奴隷制を即時廃止する法律が制定され、サントメ・プリンシペ両島では1876年に公式に奴隷制度が廃止されたデ・オリヴェイラ・マルケス/金七訳3(1981:19)〕。しかし、奴隷制度廃止と前後して1875年に植民地の原住民を労働させるための「奉公人制」を定めた法律が制定され、1878年に施行されたこの法律によって農業労働者は依然として奉公人制と呼ばれる実質的な奴隷制の下に置かれ、さらに1885年から1903年にかけて51,689人の奉公人がポルトガル領アンゴラから両島に導入された〔。この奉公人制はイギリスのチョコレート業者ウィリアム・キャンドベリイの報告書によってアメリカ合衆国、イギリス、ドイツ帝国などで大いに問題にされ、反ポルトガルキャンペーンがなされた〔デ・オリヴェイラ・マルケス/金七訳3(1981:19-20)〕。
1910年10月5日革命によってポルトガル第一共和政が成立すると、共和国政府は1911年に植民地省を創設し、新たな植民地行政では植民地住民を文化的にポルトガル化した「同化民」(アシミラド)とそれ以外の「原住民」に分け、前者にはポルトガル市民と同等の権利を認め、後者には重労働を強制したが、サントメ・プリンシペもアンゴラモザンビークギニアティモールなどと同様にこの制度が適用され、大多数の人々に重労働が課せられた〔デ・オリヴェイラ・マルケス/金七訳3(1981:142-146)〕。
第二次世界大戦後、世界が脱植民地化時代に入ると、国際社会からの植民地支配への非難を恐れたアントニオ・サラザール政権は1951年にポルトガルの「植民地」を「海外州」と呼び換え、他ポルトガルの植民地同様にサントメ・プリンシペは「海外州」となった。しかしながら、奴隷制度廃止以降も続いた強制労働制度については慢性的な不満があり、これは1953年バテーパの虐殺と呼ばれる暴動で頂点に達した。この事件ではアフリカ人農業労働者が多数、ポルトガル人の支配層により殺害された。この後独立運動が始まり、1960年9月にはガボンの首都リーブルヴィルにてサントメ・プリンシペ解放委員会(CLSTP)が結成され、1963年8月にCLSTPはプランテーション労働者のストライキを指導した〔小田(1986:161)〕。サントメ・プリンシペ独立運動(MLSTP)がガボンリベリアを拠点として活動した。1968年にはポルトガル反体制派のマリオ・ソアレスがサラザールによってサントメ島に流刑にされている〔デ・オリヴェイラ・マルケス/金七訳3(1981:139)〕。
1974年4月25日カーネーション革命によってサラザールが樹立したエスタド・ノヴォ独裁体制が倒れると、その後成立した新政権は海外植民地の放棄を決め、1975年7月12日にMLSTPの指導者マヌエル・ピント・ダ・コスタが初代大統領となり、サントメ・プリンシペ民主共和国は独立を達成した〔小田(1986:162)〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「サントメ・プリンシペの歴史」の詳細全文を読む



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