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ケルマーン州 : ウィキペディア日本語版
ケルマーン州[けるまーんしゅう]

ケルマーン州ペルシア語: استان کرمان Ostān-e Kermān)は、イラン州(オスターン)である。イラン南東部にあって州都はケルマーン。面積は181,714km²で、イラン国内で3番目に広い州である。人口は約200万。
== 歴史 ==

ケルマーン地域に人々が住み着いたのは紀元前4千年紀にさかのぼり、イランでも歴史の古い地域の1つである。時の経過とともに歴史的遺跡が集まることになった。ジーロフト:en:Jiroft)のはその例で、年代は不明であったが考古学的に紀元前2500年ころのものと判明している。文書史料ではケルマーンは勇敢あるいは戦闘を意味する「」「ケルマニア」「ジェルマンヤ」の名であらわれる。ストラボンをはじめとするローマ帝国時代のギリシア語文献などでは Carmania として表れるのがそれで、タバリーなどのアッバース朝時代の記録によると、アルダシール1世が東方のスィジスターン地方から来襲するサカなどに対する防衛としてケルマーン地方に「ウェフ=アルダフシール」 Weh-Ardaχšīr と称する城塞都市を建設したと伝えている。地理書など近世ペルシア語文献ではケルマーン市の古名や雅称として''ガヴァーシール'' Gavāshīr 、''バルダシール'' Bardashīr などといった名称が見られるが、これらは中期ペルシア語の近世ペルシア語による転訛形である(前者は w > k〜g 、後者は w > b への音韻変化)。
7世紀中頃、ヤズデギルド3世の追捕のためファールス地方に侵攻したアラブ軍は、ケルマーン地方の州都であったシールジャーンを陥落させ、この地域はイスラム帝国の支配に下った。
1048年、セルジューク朝の王族でマリク・シャーの兄であったカーヴルト・ベクがケルマーン地方を征服し、以後彼の一族がケルマーン周辺を領有する事となった。これがケルマーン・セルジューク朝の起源となる。しかし12世紀後半にホラーサーンからオグズ諸集団の侵入にさらされたが、後継者紛争で弱体化していたケルマーン・セルジューク朝はこれを撃退する事が出来ず、同王朝は1187年に首都ケルマーン市をオグズに包囲され、最後の君主ムハンマド・シャー3世がゴール朝へ亡命して滅亡した。その後オグズ集団をイラン高原から駆逐したホラズム・シャー朝が領有。1221年、アラーウッディーン・ムハンマドに臣従した西遼の将軍バラク・ハージブモンゴル帝国との戦争で混乱していたケルマーン地方周辺を領有し、カラヒタイ朝を創建した。その後モンゴル帝国および西方遠征でイランに進撃してきたフレグに帰順してイルハン朝に服属する。ムザッファル朝、サファヴィー朝などの領有を受けた。
ケルマーンは自然災害の多い地域である。たとえば最近の洪水では、州南部の古代都市遺跡ジーロフトを掘り出した。2003年12月のバム地震で、世界最大の日干し煉瓦による建築物アルゲ・バムが破壊された。2005年2月22日の大地震ではケルマーン北部のの街とその周辺で数百の犠牲者を出している(詳しくはを参照)。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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