翻訳と辞書
Words near each other
・ クシシュトフ
・ クシシュトフ・ウルバンスキ
・ クシシュトフ・オパリンスキ
・ クシシュトフ・カミンスキ
・ クシシュトフ・カミンスキー
・ クシシュトフ・ガラ
・ クシシュトフ・キェシロフスキ
・ クシシュトフ・キエシロフスキー
・ クシシュトフ・グウォヴァツキ
・ クシシュトフ・グロワツキ
クシシュトフ・コシンスキ
・ クシシュトフ・コスィーンシキー
・ クシシュトフ・コモサ
・ クシシュトフ・ザヌッシ
・ クシシュトフ・ザヌーシ
・ クシシュトフ・ソシンスキ
・ クシシュトフ・ソシンスキー
・ クシシュトフ・ソジンスキー
・ クシシュトフ・ペンデレツキ
・ クシシュトフ・ミエトゥス


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

クシシュトフ・コシンスキ : ウィキペディア日本語版
クシシュトフ・コスィーンシキー

クシシュトフ・コスィーンシキーウクライナ語:''Кри́штоф Коси́нський'';?‐1593年5月)は、ウクライナの軍人、登録コサック将軍
==概要==
ポーランド・リトアニア共和国ポドラシェ県出身の貴族。父は正教徒ルーシ人、母はカトリック教徒ポーランド人〔''Herbarz polski. Uzupełnienia i sprostowania do części'' 1. Boniecki, Adam. — T. 11: Kosiński. — s. 273.〕。1586年ザポロージャコサックの長老として史料に登場する。1590年の春に、ジグムント3世の命令を受け、ポジーリャ地方へ攻め入ったオスマン帝国軍とクリミア・ハン国軍を破り、その手柄のために知行としてロキトノ荘を賜った。その後、ロキトノ荘を横領したルーシ系公爵ヤーヌシュ・オストロージシキーと争い、1591年に公爵の不法に対しコサックの反乱を起こした。これをコスィーンシキーの乱という。1591年の秋に公爵の所領であったビーラ・ツェールクヴァを陥落させ、公爵の館からロキトノ荘に関するすべての公文書を奪った。1592年中に、反乱の拡大にともなってキエフ県の全域とポジーリャ県の一部をコサックの支配下に置いた。1593年2月にオストロージシキーの軍勢に惨敗し、逃走した。1593年チェルカースィを訪れる際、現地の代官オレクサーンドル・ヴィシュネヴェーツィキー公爵の家臣によって殺害された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「クシシュトフ・コスィーンシキー」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.