翻訳と辞書
Words near each other
・ お玉・幸造夫婦です
・ お玉杓子
・ お玉牛
・ お琴
・ お生憎さま
・ お生憎様
・ お産
・ お産の宮
・ お産難民
・ お田
お田鶴の方
・ お由羅
・ お由羅の方
・ お由羅騒動
・ お留守バンシー
・ お番菜
・ お疲れ様
・ お疲れ様の国
・ お登勢
・ お登勢 (船山馨)


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

お田鶴の方 : ウィキペディア日本語版
お田鶴の方[おたづのかた]
お田鶴の方(おたづのかた、生年不詳(天文19年(1550年))〔天文19年(1550年)は『蛇塚由来記 : 落城秘怨史』より〕 - 永禄11年12月(1568年12月))は、戦国時代の女性、飯尾連竜の妻。夫の死後、第5代曳馬城の城主になって城を守るために徳川家康の軍勢と侍女と共に戦い討死したという伝説があり、その死を哀れんだ築山御前が塚に100本余りの椿を植えた後、椿の花が毎年美しく咲いたため、付近の人々が「椿姫塚」と呼び追善供養を捧げたという伝説から椿姫とも呼ばれ、浜松城の近くにお田鶴の方を祀った「椿姫観音」が残っている。江戸時代などの史料では主に飯尾豊前守の後室または妻と、大正時代の『蛇塚由来記 : 落城秘怨史』という書物ではお田鶴の方と記載されている。〔出典:『浜松凧・屋台:凧の生みの親椿姫観音』〕またお田鶴の方のことに関しては史料等によって異なっているので史料ごとに解説する。
== 生涯 ==

*『武家事紀』では曳馬城城主の夫・連竜が今川氏に背き徳川家康に内通し、永禄7年(1564年)に今川氏真一宮を発向するも利あらずして退いた。これが原因で氏真は駿府において逆心を糺明した。永禄8年(1565年)12月20日に氏真は連竜を切腹させた。この時連竜は己が屋に立て籠もり兵士を所々に出して大いに力戦、打手の大将の新野親矩をはじめとして多くの兵が戦死した。その後連竜は自殺した。連竜の死後は家臣の江間時成、江間泰顕と共に曳馬城を守った。またこの時お田鶴の方は侍女18人共に出て力戦して討死した。また『国別城郭』の『浜松城』の項目では上記と異なる事が記載されており永禄7年(1564年)に連竜は岡崎に内通して今川に背いた。これによって氏真は大いに怒り永禄7年(1564年)12月20日に連竜を駿州において自害させた。またお田鶴の方は曳馬城に立て籠もり飯尾別心無き事を駿府に訴えていたが、連竜の家臣の江間時成、江間泰顕は猶岡崎に内通していた。
*『井伊家伝記』では遠州八城山城城主の天野左衛門尉が今川氏に背いたことを知った氏真が曳馬城の城主だった井伊直平に天野左衛門尉の鎮圧を命じ、直平が出陣の支度をしている所を天野左衛門尉とその縁者と共に直平の家老だった連竜へ反逆を勧め、共に直平に反逆した。そして永禄6年(1563年)9月18日〔永禄6年(1563年)9月18日は『井伊直平公御一代記』より〕にお田鶴の方が直平に茶を勧めるも、その茶は毒茶だったため直平は有玉旗屋の宿にて落馬し絶命した。(しかし『井伊家伝記』には連竜が直平に毒薬を進め申したとも記されている。〔「8.井保十三代、井伊信濃守直平、遠州引馬の城主に成る事」出典:『井伊家伝記』より〕)その後連竜達は同心の輩を相催し、大手を固め籠城した。またこの時直平の家来も毒死。多くは連竜達の味方になった。その後連竜は氏真にも反逆を企み従わず、永禄11年(1568年)に連竜は曳馬城の城主となるが、後に氏真は松居郷八郎という別懇の武士を以って連竜に和談を申し入れ酒宴を催すも、連竜は辰之助と共に氏真によって駿府で切腹させられた。連竜の死が原因で遠州引馬の家人は大いに騒動になり、これによって連竜の家老の江間常陸と弟の加賀の流浪は目の前になった。弟の加賀は徳川氏に、常陸は兄の一徳を頼り武田氏に内通しようとした。やがて江間常陸が加賀を殺害、常陸は加賀の家来の小野田小次郎に殺害された。しかし家老の江間常陸と加賀が討たれても、次男辰三郎を介抱していたお田鶴の方は降参の底にも見え申さなかったため、徳川家康は松下常慶、後藤太郎左衛門を使者として送り穏便に城を明け渡せば御扶持も渡し妻子共々面倒を見る上に家人等本領安堵すると降伏を勧めたが、お田鶴の方は承引せず、城兵300人あまり固め却って過言の返事を申したため。家康は城を攻めた。城兵は防ぎ厳しく鉄砲の打ち掛けあいになり、家康の兵は300人討死し、城兵も200余り討死するも家康の軍は大軍だったため崩れず、家康の兵は二、三の丸を攻め入った時、お田鶴の方と次男辰三郎と侍女18人左右に随え切って出て粉骨を尽くすも全員討死した。
*『武徳編年集成』では連竜が家康への内通を疑いを何者かに風説されため、永禄8年(1565年)12月20日に氏真は連竜を駿府城内へ召し寄せ兵士100名に襲わせた。連竜の兵も2、30名の兵で防戦したので、氏真の兵も多く戦死、この時お田鶴の方が無双の強力でしばしば出て奮戦した。これを『駿府の小路の戦い』といった。〔『武徳編年集成』より〕また八切止夫の『秘聞 柳生石舟斎』によると『武徳編年集成』には何者かが連竜は今川の裏切り者であるという風評をしきりに撒き散らしたので、氏真は連竜を駿府城内へ呼び、二の丸にある飯尾の館で遠州から来た連竜夫妻が一服していたところを氏真は兵士100名に襲わせた、この時お田鶴の方は手に滑り止めの粉白粉をつけ薙刀を奮って10名余りの今川方の侍を切り伏せたが、衆寡敵せず連竜と共に首を取られ、二の丸大手門に晒された。上記と異なることが記されている。
*『改正三河後風土記』では連竜が家康に内通し、病と称して曳馬城に引き返してる間、新井白須賀邊の駅舎を放火したという疑いに今川氏真は大いに憤り、その真偽を問いただす為に三千人の兵を曳馬城へ差し向け、有無を言わずにいきなり攻撃するも、連竜は防戦し撃退した。しかし氏真はますます怒り、大勢を付き添え囲み昼も夜も攻めたが城は落ちず、連竜は敵陣に対して矢文で起請文を出し、今川方の寄せ手はそれを受け取り引き返した。その後氏真に罪を許された連竜は礼謝の為に駿府に来たが氏真に謀殺された。お田鶴の方は夫が氏真によって謀殺された事に対して女ながらもけなげなる性質であったため憤り、堅く籠城を決意、城兵を指揮して、小国の武藤刑部丞を頼り武田氏に内通したと記されている。やがて飯尾が家臣・江間時成、江間泰顕両人の内意で家康が家臣・松下、後藤両人を使者として派遣して城を明け渡せば妻子だけでなく家人共々面倒を見ると言って諫めようしたがお田鶴の方がどうしても応じなかったため、家康が曳馬城を乗っ取る為に酒井忠次石川数正に攻め込ませるが、お田鶴の方が防戦の指揮をして城兵はしばしば突き出て激しく戦い、酒井・石川は大いに敗走、その翌日また酒井・石川が激しく攻め立て、遂に外郭に乗り込まれると、お田鶴の方が緋威の鎧と同じ毛の兜を着て、薙刀をふるって敵中に切って入り、また侍女7、8人(『概説静岡県史』では侍女18人)も同じ装いで出て立ち、城兵5、60人と同じく勇戦し男女一人も残らず討死にした。明治時代以降に発行された『武家名目抄』『古事類苑』『東海道五十三次:附・名数雑談』『概説静岡県史』にも上記の奮戦の事が記されている。
 *『改正三河後風土記』ではこのことを「彼妻去就の是非は論ずるにたらざれども、其志操の節烈は丈夫にもまさりたりと感ぜぬ者なし」とその志操の節烈は丈夫にも勝りたりと感じない者はいなかった。と記している。また大正時代に発行された芳賀矢一の『東海道五十三次:附・名数雑談』ではこのことに関して「天晴(あっぱれ)武士道の意気地(いきじ)。武勇は板額にも劣らず、節操は細川氏夫人にも優(まさ)って居る。」と記している。
*また明治時代以降に刊行された史料だと『皇朝金鑑』『風尚民俗篇』では永禄10年(1567年)に連竜が氏真の猜疑によって殺された後(『修身事蹟:婦女必読』では連竜は氏真と戦い討死にしたとも)、亡き夫に代わり曳馬城を守るも、後に家康が使者を送り「城を致さしめ其邑を全からしめんとす」〔『民政史稿. 風尙民俗篇』より〕と城を渡せば亡き夫の領地をそのまま渡すと説得した。しかしお田鶴の方は「妾(わらわ)婦女と雖(いえど)も己に武夫(もののふ)の家に生(はべ)るものなり、おめおめ城を開きて降参するは妾(わらわ)の志にあらず。」〔『修身事蹟 : 婦女必読』『皇朝金鑑』『風尚民俗篇』より〕と申したため(また『修身事蹟 : 婦女必読』ではこのお田鶴の方の申しに対して家康は怒ったとも記されている。)、家康は兵を使って城を攻めた。だが城兵は大いに戦い家康の兵は300人討死し、城兵も200余り討死した。〔『民政史稿. 風尙民俗篇』『皇朝金鑑』より〕やがて外郭を破る時、お田鶴の方は鎧を着て髪を垂れ薙刀をふるい侍女17人と共に左右に並び門を開けて突戦するも全員討死した。『修身事蹟 : 婦女必読』では後に家康は大いにこの事を惜しんだと記されている。『風尚民俗篇』では「巾幗の身を以って、奮戦、節に死したる、飯尾豊前が妻の如きは、最も美とすべきものあり。」と記している。『尾参宝鑑』では家康は永禄11年(1568年)12月24日に使者を使って「先さに吾に降り今又今川に属す故に攻む」といえども、城を渡せばお田鶴の方を扶助するといったが、お田鶴の方が承引しなかったため、12月25日に家康は城を攻めた。この時お田鶴の方は甲冑を着て300人余り従えていたがお田鶴の方含む皆戦死、家康の兵も300人死傷した。『遠江』では連竜が永禄8年(1565年)12月に駿河で討たれた後、家老の江間時成、江間泰顕が城を守るも徳川派と武田派に分裂したため二人は争い共に討死、その後永禄11年(1568年)12月に家康に攻められるもお田鶴の方が防戦の指揮をして侍女朗従を従えて突き出て奮闘するも討死した。と記している。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「お田鶴の方」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.