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纒向型前方後円墳 : ミニ英和和英辞書
纒向型前方後円墳[まきむくがたぜんぽうこうえんふん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [かた]
 【名詞】 1. mold 2. mould 3. model 4. style 5. shape 6. data type 
前方 : [まえかた]
  1. (adv,n) previously 2. some time ago
前方後円墳 : [ぜんぽうこうえんふん]
 【名詞】 1. ancient Imperial graves 
: [ほう]
  1. (n-adv,n) side 2. direction 3. way 
: [のち]
  1. (n,adj-no) afterwards 2. since then 3. in the future 
: [まる, えん]
 【名詞】 1. (1) Yen 2. money 3. (2) circle
円墳 : [えんふん, えんぷん]
 (n) burial mound

纒向型前方後円墳 : ウィキペディア日本語版
纒向型前方後円墳[まきむくがたぜんぽうこうえんふん]
纒向型前方後円墳(まきむくがたぜんぽうこうえんふん)とは、弥生時代末葉の弥生墳丘墓古墳時代初頭の出現期古墳発掘調査や研究・検討の結果、従来は弥生墳丘墓とみられてきた前方後円形をなす墳墓を、古墳として積極的に評価しようという観点から提唱された概念、およびその墳墓。提唱者は寺沢薫である。
== 概要 ==
奈良県立橿原考古学研究所の寺沢薫は、1988年昭和63年)、奈良県桜井市纒向遺跡に所在する纒向石塚古墳纒向矢塚古墳千葉県市原市神門古墳群中の神門(ごうど)4号墳・5号墳〔日本第四紀学会『図解・日本の人類遺跡』(1992)では、神門5号墳(全長39メートル)を弥生Ⅵ期古段階、4号墳(全長49メートル)を弥生Ⅵ期新段階に位置づけている。〕、福岡県小郡市津古生掛古墳〔墳丘長約33メートル。玉57、鏡1のほか剣、有稜鏃をともなう。〕など墳丘形状が前方後円形をとる墳丘墓を「纒向型前方後円墳」として抽出し、これらの墳墓が箸墓古墳椿井大塚山古墳に代表される定型化した前方後円墳の成立以前および成立期に、「初期ヤマト政権の中枢たる纒向遺跡との政治的、祭祀的関係のもとに成立した」との見解を示した〔寺沢(1988)〕。
このような墳墓は、中国の尺度を使用した一定の規格と類型をもって関東地方から九州地方北部の各地にひろがっており、畿内系の土器を共伴しているのが特徴であり、墳丘の築成法は、単純な盛土によるものではなく、などで枠をつくり、土をそのなかに盛ってなどでつき固める版築に近い手法で造成されている。また、前方部が低く短く、墳丘全長と後円部・前方部それぞれの長さが3:2:1の比となることが特徴である〔寺沢(1994)p.28-31〕。そして、いわゆる「前方後円墳」とは、「纒向型前方後円墳の成立以降の諸要素の大量化と巨大化と隔絶性の漸次整備されたもの」であるとしている〔。
上述の石塚、矢塚のほか纒向勝山古墳東田大塚古墳ホケノ山古墳を含めた纒向古墳群に属する5基は、いずれも墳丘規模90-100メートルで、前方部が短く帆立貝のような形状である〔前方部が真っ直ぐに伸びて広がらない形状の前方後円墳を「帆立貝式」の名で呼ぶことがあるが、このような形状は時代を下ってもみられるので、単に形状のみの類似性だけで時期を特定することは適切ではない。〕などの共通点を有し、また、その後の調査や研究によって、北は福島県の臼ヶ森から南は鹿児島県の端陵など、日本列島の広範囲にわたって出現期古墳に先行する要素をもつ墳丘墓が確認された。

寺沢は、古墳時代の始まりを「纒向型前方後円墳の出現とそれを生む時代・社会の成立」としており、その原型として、兵庫県加古川市西条古墳群中の西条52号墓などを掲げている〔。西条52号墓は、墳丘長約25メートルで、円丘と1つの突出部をもち、弥生墳丘墓と前方後円墳の両方の要素を併せもつ墳丘墓であり、播磨考古学研究集会による報告書(2009年)〔1963年(昭和38年)から64年にかけて調査がなされた。2009年(平成21年)2月、45年ぶりに播磨考古学研究集会から報告書が刊行されている。〕では3世紀前半の年代があたえられている。
また、「纒向型」の源流は、2世紀末葉の楯築墳丘墓、すなわち岡山県倉敷市楯築遺跡などにみられる「円丘に3分の1大の明確な方形突出部」をもった墳丘墓であり、円筒埴輪の原型とされる特殊器台・特殊壺の存在とともに、キビ(吉備)の強い影響のもと、3世紀前半、ヤマト王権の王都と目される纒向で成立したというものである〔。
寺沢の研究は、「箸墓を基準とする定型化した前方後円墳が一朝にして成立したものではないことを示した重要な研究」と高く評価されている〔土生田(1995)p.7〕。その一方で「定型的前方後円墳の成立よりも、纒向型前方後円墳の成立のほうが大きな画期だとする考えには、必ずしも賛成できない」〔望月(1990)p.35〕との意見もある。和田晴吾も、寺沢の研究を踏まえながらも「纒向前方後円形周溝墓」の用語を用いており〔和田(2004)p.174-176〕、広瀬和雄も、纒向石塚古墳を「纒向石塚墳墓」、寺沢称するところの纒向型前方後円墳を「前方後円型墳墓」として弥生墳丘墓に含めるなど慎重な姿勢を示している〔広瀬(2003)p.119-121ほか〕。なお、松木武彦は当該墳墓を弥生墳丘墓Ⅵ期に位置づけ「一突起円墓」の呼称を用いている〔松木(1999)〕。いっぽう、纒向石塚古墳は、調査担当者の石野博信らによれば、奈良盆地における発生期古墳の1つとみなされている〔石野博信関川尚功『纒向』(1976)〕。
いずれにせよ、定型的な前方後円墳の成立以前に、すでにヤマトを中心とする結びつきが東北地方南部から九州地方にかけて広がっているという学説は、きわめて注目すべき内容をふくんでおり、今後も活発な議論が展開されるものと予想される。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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