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石川政信 : ミニ英和和英辞書
石川政信[いしかわ まさのぶ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [こく, いし]
 【名詞】 1. volume measure (approx. 180l, 5 bushels, 10 cub. ft.) 
: [かわ]
 【名詞】 1. river 2. stream 
: [せい, まつりごと]
 【名詞】 1. rule 2. government 
: [まこと, しん]
  1. (adv,n) truth 2. faith 3. fidelity 4. sincerity 5. trust 6. confidence 7. reliance 8. devotion 

石川政信 : ウィキペディア日本語版
石川政信[いしかわ まさのぶ]
石川 政信(いしかわ まさのぶ、弘治2年(1556年) - 元亀3年(1572年)/天正16年〔南部氏の公認系図である『御系譜』には「為奥州津軽郡代、居浪岡城、天正十六年戊子年三月十六卒、行年廿九歳云々」とある。〕(1588年))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将南部氏の家臣。父は石川高信、兄に南部信直がいる。室に北信愛娘。子に高殿院(七戸直時室)。
天正9年(1581年)に病死した父・高信から津軽郡代を継承し浅瀬石城主・千徳政吉大光寺城主・大光寺光愛、そして大浦為信(後の津軽為信)の補佐を受け浪岡城を居城に南部氏の津軽地方統治の中心となっていたが、千徳政吉は間もなく病死し、大光寺光愛は為信の讒言により追放され、そして天正16年(1588年)、為信の手により毒殺されたと言われている〔奥南落穂集〕。
しかし、元亀2年(1571年)~天正10年(1582年)頃には既に津軽地方は大浦為信が掌握しており、石川政信が津軽に入れる状況ではない事から、政信の存在そのものに疑義を挟む学者もいる〔『奥南落穂集』『津軽之事』に「石川高信君石川城にて天正八年死去有しといへども大光寺始め諸臣彦次郎政信君を補佐、北畠の臣下を服従せし故、自から南部家領知になり、行丘城(浪岡城)に移住し給ふなり。」とあり、天正6年(1578年)の浪岡北畠氏滅亡後、南部氏がその旧臣を取り込んで勢力奪還を図った可能性もある。〕。その一方で、南部氏の重鎮・石川家の嫡男である信直が宗家南部晴政の養子に迎えられた後に、石川家を無嗣のまま放置しておいたとも考えられない。津軽氏の記録には大浦為信に、元亀2年(1571年石川城を攻められて父・高信が討たれ、政信は翌元亀3年(1572年)に討たれたという記載もあるが、没年については異論もあるところである〔元亀~天正16年頃迄の為信の軍事行動について南部側編纂史料が触れていないことは事実である。しかしそれを傍証する遠野南部家所蔵文書については歴年が記されておらず、年代比定には慎重を要する。『岩手県史』においても「これら書状は同一年代のものか否か判明しない」とある。『青森県史』『新青森市史 資料編2』でも南慶儀書状が年代比定し直されている。それによると、天正17年(1589年)の段階でも津軽地方において為信が何らかの軍事行動を起こしていたとみられており『津軽一統志』の記述の信頼性も疑われる。よって天正17年前後に浪岡城が為信により襲われたとする南部側史料が専ら改竄されたものだとする説は検証を要する。〕。
諸系図によると政信は北信愛の娘との間に七戸直時に嫁ぎ高殿院と称した女子がおり、高殿院の娘は毛馬内政次の室となっている。
== 脚注 ==


category:戦国武将
category:陸奥国の人物

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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