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五十嵐八五郎 : ミニ英和和英辞書
五十嵐八五郎[いがらし はちごろう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ご]
  1. (num) five 
五十 : [ごじゅう]
 【名詞】 1. fifty 
: [とお]
  1. (num) 10 2. ten 
: [あらし]
 【名詞】 1. storm 2. tempest 
: [やつ]
 (num) eight

五十嵐八五郎 : ウィキペディア日本語版
五十嵐八五郎[いがらし はちごろう]
五十嵐 八五郎(いがらし はちごろう、1854年安政元年) - 1927年昭和2年))は主に埼玉県南埼玉郡北部にの栽培法を広めた人物であり、埼玉梨の祖と云われる。
== 経歴 ==
1854年安政元年)に当時の武蔵国埼玉郡臺村(現埼玉県久喜市菖蒲町台)に生を受ける。1871年明治4年)に群馬県勢多郡大島村(現前橋市)に赴く。その地で梨栽培に興味を抱き、梨栽培技術の研究に励む。そして群馬県・千葉県でそれぞれ1年ずつ梨栽培の修行をし、埼玉県幡羅郡三ヶ尻村(後の大里郡三尻村、現熊谷市)で8年、計10年間梨の栽培実地研修を行った。1876年(明治13年)11月、大里郡武川村(現深谷市)で梨栽培に専念・技術も進歩し、販売を行い収益も多く得る。この有利な事業を一人占めすることなく1881年(明治17年)には南埼玉郡台村および南埼玉郡三箇村、南埼玉郡栢間村、南埼玉郡江面村、その他各地の村々を廻り、「長十郎」「真鍮」と呼ばれる品種の栽培を普及させ、梨栽培の有利性そして技術を伝えた。 梨栽培が有用な事業であることが認識されたのは1910年(明治43年)8月の台風による水害時(関東大水害)のことである。野菜などの作物が被害を受ける中、梨はほぼ被害を受けることがなかった。梨は当時高価に取引され、換金作物として地域に急速に普及していった。1927年昭和2年)に没し、その後「埼玉梨の元祖」と称されるようになった。出生の別説として、しみん農園久喜に所在する「ナシの記念碑」には「八五郎は安政元年に埼玉郡三箇村(現:久喜市菖蒲町三箇)向野の大久保嘉左衛門の二男として生れた。」ともある。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「五十嵐八五郎」の詳細全文を読む




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