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ビラ・スタンモーア夜戦 : ミニ英和和英辞書
ビラ・スタンモーア夜戦[びら すたんもーあやせん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ビラ : [びら]
 【名詞】 1. villa 2. handbill 3. poster 4. , (n) villa/handbill/poster
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [よる]
  1. (n-adv,n-t) evening 2. night 
夜戦 : [やせん]
 (n) night warfare
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 

ビラ・スタンモーア夜戦 : ウィキペディア日本語版
ビラ・スタンモーア夜戦[びら すたんもーあやせん]

ビラ・スタンモーア夜戦(ビラ・スタンモーアやせん、)は太平洋戦争中の1943年3月5日にソロモン諸島で生起した海戦ケ号作戦(ガダルカナル撤退)後、日本軍の新たな拠点となったコロンバンガラ島への輸送に従事していた駆逐艦2隻と、コロンバンガラ島への艦砲射撃を企図したアメリカ海軍の巡洋艦部隊が交戦し、日本側の駆逐艦2隻が一方的な攻撃を受けて沈没した。
「ビラ・スタンモーア夜戦」の海戦名はアメリカ側による呼称で〔#写真・太平洋戦争p.168〕、日本側では一方的な敗戦であるためか海戦名は付されていないとする〔#木俣水雷p.308〕。ウィキペディア英文版での呼称は「ブラケット水道海戦」( )となっている。とはコロンバンガラ島と南隣のの間にある水路の名称であるが、戦闘自体はブラケット水道の東口、クラ湾に接した海域で行われた。また、戦史研究家サミュエル・モリソンは自身の編集による戦史(通称「モリソン戦史」)で「この戦闘は時々クラ湾の第一合戦と呼ばれるが、公式の名称は附與されていない」と記している〔#村雨の最期p.106〕。
==背景==
ガダルカナル島の戦いも終末期に差し掛かった1942年11月末、アメリカ軍はニュージョージア島ムンダに日本軍が新たな飛行場を建設中であることを知る〔#ポッターp.313〕。ムンダとガダルカナル島の距離は175マイル(約280 km)で〔、ガダルカナル島再奪回やアメリカ軍の進撃を妨害するには好適地であった〔#佐藤p.192〕。零戦のガダルカナル島上空での行動時間は大幅に伸び、爆撃機も従来以上の量の爆弾を搭載してガダルカナル島を爆撃する事も可能となる〔。実際には、日本軍がムンダでの飛行場建設に乗り出したのは12月1日からで〔#佐藤p.189〕、第一期工事は二週間ほどで終了した〔。また、コロンバンガラ島でも1943年1月上旬から飛行場建設を開始する予定だった〔。当然、アメリカ軍からしてみればムンダの基地が本格稼動し、コロンバンガラ島の飛行場も使用可能となった暁には相当な脅威となる厄介な存在と判断されていた〔#ニミッツ、ポッターp.165〕。
そこで、1943年に入るや否や、アメリカ軍南太平洋部隊司令官ウィリアム・ハルゼー大将は水上部隊にムンダとコロンバンガラ島への艦砲射撃を繰り返し行わせ、同時に爆撃や航空機による機雷投下も行った〔。すなわち、1月4日にはムンダへの砲撃が、1月23日にはコロンバンガラ島への砲撃がそれぞれ行われて十分な打撃を与えた〔。とはいえ、圧倒的な力をかけるにはアメリカ軍の戦力は十分とは言えず〔#ポッターp.344〕、日本軍は新たな橋頭堡を強固なものにすべく中部ソロモン諸島行きの「東京急行」を次々と送り込んでいた。3月4日16時、第四水雷戦隊(高間完少将)指揮下の駆逐艦「村雨」と「峯雲」が補給物資として入りのドラム缶や弾薬などを積載してラバウルから出撃しコロンバンガラ島へと向かった〔#戦史96p.74〕〔#村雨の最期p.13〕〔#木俣水雷p.304〕。「村雨」と「峯雲」は前日3月3日、ラエ第五十一師団を送り込む第八十一号作戦の陽動としてコロンバンガラ島方面を行動しており、ビスマルク海海戦で第五十一師団を乗せた輸送船団が壊滅した悲報を聞いてラバウルに引き返したが、ラバウル入港直前に「村雨」が座礁事故を起こし、離礁してラバウルに帰投したのは3月4日の夜明け前のことだった〔#村雨の最期pp.11-13, p.324〕。また、「村雨」と「峯雲」は、この輸送作戦が終われば、ブインからラバウルへ航空部隊基地員140名と物資を輸送する任務も与えられていた〔#四水戦pp.11-12〕〔#村雨の最期p.59,324〕。
一方、アメリカ軍もコロンバンガラ島砲撃のためこの日艦隊を出撃させていた〔#木俣水雷p.305〕〔#O'Hara p.167〕。当時、ムンダおよびコロンバンガラ島を砲撃するアメリカ艦隊には二つの任務部隊があった。一つはヴォールデン・L・エインスワース少将の第67任務部隊(旗艦「ホノルル」)、もう一つがアーロン・S・メリル少将の第68任務部隊(旗艦「モントピリア」)であった〔〔#ポッターpp.344-345〕。この二つの任務部隊は交替で夜間にムンダとコロンバンガラ島へ接近し、艦砲射撃の後即座に退却して基地に帰投するというパターンを繰り返した〔。また、ガダルカナル島をめぐる海戦に登場した臨時編成の任務部隊とは違い、夜戦を得意としていた日本艦隊によりよく対抗できるよう、レーダーに関する知識を学び、常にまとまって訓練と行動を繰り返した結果、均整が取れた部隊となっていた〔。ハルゼー大将は過大報告された前回の砲撃結果に基づき、再度の攻撃のためメリルを出撃させた〔#O'Hara pp.166-167〕。メリル少将の第68任務部隊はエスピリトゥサントを出撃し、「ザ・スロット」と呼ばれたニュージョージア海峡をひたすら北上する〔#戦史96p.76〕。このニュージョージア海峡突入時から「ブラックキャット」の異名を持つ夜間哨戒仕様のPBY「カタリナ」#ニミッツ、ポッターp.172〕3機が第68任務部隊の前路警戒配備に就いた〔。なお、第68任務部隊の軽巡洋艦群のうち、「コロンビア」 (''USS Columbia, CL-56'') は修理を行う必要があったため作戦から除外された〔#フェーイーp.38〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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