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ビスマルク海海戦 : ミニ英和和英辞書
ビスマルク海海戦[びすまるくかいかいせん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ビス : [びす]
  1. (fr:) (n) (1) screw (fr: vis) 2. -bis (again, second version) (fr: bis) 3. BIS (Bank of International Settlements) 4. (fr:) (n) (1) screw (fr: vis)/(2) -bis (again, second version) (fr: bis)/(3) BIS (Bank of International Settlements)
海戦 : [かいせん]
 【名詞】 1. naval battle 
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 

ビスマルク海海戦 ( リダイレクト:ビスマルク海海戦(ビスマルクかいかいせん、Battle of Bismarck Sea)は、第二次世界大戦中の1943年3月2日から3日に、ビスマルク海からダンピール海峡にかけての海域で、連合国軍が日本軍の輸送船団に対し航空攻撃を行ったことで発生した戦闘。日本側の輸送作戦の名称は「第八十一号作戦」である#南東方面艦隊(2)pp.33-34『第五 第八一號作戰 「カ」號作戰ノ爲ニ準備セル部隊ハ「ケ」號作戰ノ概成ト共ニ「ソロモン」方面ヘノ輸送ハ不必要トナリ陸海軍中央協定ニ基キ同兵力ヲ「ニューギニア」方面ニ転送シ該方面ニ於ケル戰略態勢ヲ強化スルコトトナリ輸送ニ関シ第八方面軍ト協定ス(「ニューギニア」方面ニ対スル兵力輸送ニ関スル陸海軍間協定覺書 二月十三日) 第四十一師團主力ノ「ウエワク」附近揚陸及本作戰実施ノ爲陸軍航空部隊展開ニ必要ナル基地員及物件ノ「マダン」「スルミ」及「ツルブ」ニ対スル輸送ハ何レモ豫定通完了セルモ第十八軍司令部及第五十一師團ノ「ラエ」ニ対スル船團輸送ハ事前「モレスビー」方面ニ対スル航空撃滅戰ノ実施不徹底ニ禍セラレ敵空軍ノ大集團攻撃ヲ受ケ潰滅スルニ至レリ(詳細FBG戰斗詳報)第二十師團ノ「マダン」輸送ハ前項「ラエ」輸送ノ失敗ニ鑑ミ敵機ノ攻撃圏ヲ考慮シ揚陸点ヲ「ハンサ」湾ニ変更(NTF信電令作第二號)陸軍航空部隊ノ直衛下ニ三月十二日揚陸完了セリ』。この戦闘で日本軍の輸送船団は壊滅し、ダンピール海峡の悲劇と呼称された#モリソンの太平洋海戦史225-226頁。== 背景 ===== 第八十一号作戦 ===1943年(昭和18年)2月1日から7日にかけて日本軍はガダルカナル島から撤退した(ケ号作戦)。同時期、連合軍はニューギニア島方面でも攻勢に出ており、日本軍はパプアニューギニア方面の戦いでも窮地に追い込まれる#奥宮ラバウル(学研M文庫)227頁『企図された八一号作戦』。1月2日には東部のブナ守備隊が玉砕した(ポートモレスビー作戦)。そこで日本軍は連合軍の次の攻撃目標と予測されるパプアニューギニア各拠点に陸軍部隊を送り、侵攻に備えることにした。この輸送作戦を第八十一号作戦という#高松宮日記6巻50頁『○外南洋部隊(二四-〇八二四)作94号 増援部隊ハ陸海軍協定ニ基キ、駆逐艦八ヲ以テ、二-二八ラボール発、三-三ラエ着、「陸軍輸送船六、「野島」、陸軍海上トラック一」ノ護衛ヲ行フト共ニ、(イ)駆逐艦四 陸兵各150、防空隊(人員20及13m/m機銃三)及「ドラム」缶入糧食各50缶、(ロ)駆逐艦二 陸兵各150、ドラム缶入糧食各60缶、(ハ)駆逐艦二 陸兵各90、「ドラム缶」入糧食各60缶、ヲ輸送スベシ』。1943年1月5日のラエへの最初の輸送作戦「第十八号作戦」は成功した。第八十一号作戦は三段階の作戦で構成されていた。陸軍第四十一師団を内南洋パラオ諸島からニューギニア中部北岸ウェワクへ輸送する『丙三号作戦』(2月下旬)と#奥宮ラバウル(学研M文庫)227頁、前述の陸軍第51師団をラエに輸送する『八十一号作戦ラエ輸送』(本項目)、陸軍第二十師団(パラオ)をニューギニア島北岸マダンへ輸送する『八十一号作戦マダン輸送』である。南東方面部隊と第八方面軍間の協定に基づき、2月21日に現地協定が結ばれる#図説太平洋海戦史第3巻47頁。日本海軍航空隊はポートモレスビーおよびラビ方面の連合軍飛行場を、日本陸軍航空隊はワウとブナ方面の攻撃を行う#奥宮ラバウル(学研M文庫)229頁。だが日本海軍が同方面の航空兵力を半分集結させても、戦闘機約60、艦爆10、陸攻20、水上機10程度だったという。現地では1月27日にワウの戦いが開始されたが2月24日までに撤退していた。ウェワク輸送に関しては、2月20日から26日にかけて約1万3600名の陸兵と輸送物件の揚陸に成功した#奥宮ラバウル(学研M文庫)230頁。第八十一号作戦ラエ輸送に関しては、第三水雷戦隊司令官木村昌福少将を護衛部隊指揮官とする駆逐艦8隻(第11駆逐隊《白雪》、第19駆逐隊《浦波、敷波》、第8駆逐隊《朝潮、荒潮》、第9駆逐隊《朝雲》、第16駆逐隊《時津風》、雪風)・陸軍輸送船7隻(大井川丸、大明丸、建武丸、帝洋丸、愛洋丸、神愛丸、旭盛丸)・海軍運送艦1隻(野島)の船団が編制され、同船団上空警戒は、ラバウルとカビエンの第204空や第253空および空母瑞鳳航空隊の零戦合計60機以上、陸軍戦闘機60機以上が担当する#高松宮日記6巻77-78頁『○第一空襲部隊(二-一九四二)三月二日』#高松宮日記6巻84-85頁『○第一空襲部隊(三-一九四七)三月三日(概報244)』。木村三水戦司令官はあくまで作戦に参加した一部隊の指揮官であり、総指揮官は南東方面艦隊(第十一航空艦隊)司令長官である。(秋月型駆逐艦以前に開発された日本海軍の駆逐艦全てに言えることであるが)護衛の駆逐艦はどれも対空装備は機銃程度しか積んでおらず、高角砲は無かった。また各駆逐艦にも陸軍兵と補給物資搭載の指示がなされた。日本軍の作戦では、2月28日にラバウルを出航し、3月3日にラエ到着揚陸予定であった。事前に敵航空戦力を空爆により弱体化させる計画であり、夜間爆撃がラビ及びポートモレスビーに対して行われたが、前述のように航空戦力の過少と天候不良により不十分であった。軍令部は「輸送船の半分に損害はあるかもしれぬ」と判断していた。ラバウルに本拠地を置く日本軍基地航空隊(第十一航空艦隊、司令長官草鹿任一中将《南東方面艦隊司令長官兼務》)は、3月3日当日に重巡洋艦「青葉」と雷撃訓練を行うような状態だった。上級司令部(大本営、軍令部、連合艦隊、南東方面艦隊《第十一航空艦隊、第八艦隊》)主導の作戦に対し、護衛部隊の第三水雷戦隊参謀であった半田仁貴知少佐は、八十一号作戦計画担当であった第八艦隊作戦参謀神重徳大佐に「この作戦は敵航空戦力によって全滅されるであろうから、中止してはどうか」と申し入れたが、神大佐から「命令だから全滅覚悟でやってもらいたい」と回答されたという戦史叢書96巻南東方面海軍作戦(3)ガ島撤収後 68頁。もっとも、本作戦はラエ輸送作戦を主張する陸軍と、マダンもしくはウェワク輸送を主張した日本海軍(連合艦隊)の、妥協の産物でもあった。 ) : ウィキペディア日本語版
ビスマルク海海戦(ビスマルクかいかいせん、Battle of Bismarck Sea)は、第二次世界大戦中の1943年3月2日から3日に、ビスマルク海からダンピール海峡にかけての海域で、連合国軍が日本軍の輸送船団に対し航空攻撃を行ったことで発生した戦闘。日本側の輸送作戦の名称は「第八十一号作戦」である[いくさ]

ビスマルク海海戦(ビスマルクかいかいせん、Battle of Bismarck Sea)は、第二次世界大戦中の1943年3月2日から3日に、ビスマルク海からダンピール海峡にかけての海域で、連合国軍が日本軍の輸送船団に対し航空攻撃を行ったことで発生した戦闘。日本側の輸送作戦の名称は「第八十一号作戦」である〔〔#南東方面艦隊(2)pp.33-34『第五 第八一號作戰 「カ」號作戰ノ爲ニ準備セル部隊ハ「ケ」號作戰ノ概成ト共ニ「ソロモン」方面ヘノ輸送ハ不必要トナリ陸海軍中央協定ニ基キ同兵力ヲ「ニューギニア」方面ニ転送シ該方面ニ於ケル戰略態勢ヲ強化スルコトトナリ輸送ニ関シ第八方面軍ト協定ス(「ニューギニア」方面ニ対スル兵力輸送ニ関スル陸海軍間協定覺書 二月十三日) 第四十一師團主力ノ「ウエワク」附近揚陸及本作戰実施ノ爲陸軍航空部隊展開ニ必要ナル基地員及物件ノ「マダン」「スルミ」及「ツルブ」ニ対スル輸送ハ何レモ豫定通完了セルモ第十八軍司令部及第五十一師團ノ「ラエ」ニ対スル船團輸送ハ事前「モレスビー」方面ニ対スル航空撃滅戰ノ実施不徹底ニ禍セラレ敵空軍ノ大集團攻撃ヲ受ケ潰滅スルニ至レリ(詳細FBG戰斗詳報)第二十師團ノ「マダン」輸送ハ前項「ラエ」輸送ノ失敗ニ鑑ミ敵機ノ攻撃圏ヲ考慮シ揚陸点ヲ「ハンサ」湾ニ変更(NTF信電令作第二號)陸軍航空部隊ノ直衛下ニ三月十二日揚陸完了セリ』〕。この戦闘で日本軍の輸送船団は壊滅し、ダンピール海峡の悲劇と呼称された〔#モリソンの太平洋海戦史225-226頁〕。
== 背景 ==

=== 第八十一号作戦 ===
1943年(昭和18年)2月1日から7日にかけて日本軍はガダルカナル島から撤退した(ケ号作戦)。同時期、連合軍はニューギニア島方面でも攻勢に出ており、日本軍はパプアニューギニア方面の戦いでも窮地に追い込まれる〔#奥宮ラバウル(学研M文庫)227頁『企図された八一号作戦』〕。1月2日には東部のブナ守備隊が玉砕した(ポートモレスビー作戦)。そこで日本軍は連合軍の次の攻撃目標と予測されるパプアニューギニア各拠点に陸軍部隊を送り、侵攻に備えることにした〔。この輸送作戦を第八十一号作戦という〔#高松宮日記6巻50頁『○外南洋部隊(二四-〇八二四)作94号 増援部隊ハ陸海軍協定ニ基キ、駆逐艦八ヲ以テ、二-二八ラボール発、三-三ラエ着、「陸軍輸送船六、「野島」、陸軍海上トラック一」ノ護衛ヲ行フト共ニ、(イ)駆逐艦四 陸兵各150、防空隊(人員20及13m/m機銃三)及「ドラム」缶入糧食各50缶、(ロ)駆逐艦二 陸兵各150、ドラム缶入糧食各60缶、(ハ)駆逐艦二 陸兵各90、「ドラム缶」入糧食各60缶、ヲ輸送スベシ』〕〔。
1943年1月5日のラエへの最初の輸送作戦「第十八号作戦」は成功した。
第八十一号作戦は三段階の作戦で構成されていた。陸軍第四十一師団を内南洋パラオ諸島からニューギニア中部北岸ウェワクへ輸送する『丙三号作戦』(2月下旬)と〔#奥宮ラバウル(学研M文庫)227頁〕、前述の陸軍第51師団ラエに輸送する『八十一号作戦ラエ輸送』(本項目)、陸軍第二十師団(パラオ)をニューギニア島北岸マダンへ輸送する『八十一号作戦マダン輸送』である〔。
南東方面部隊と第八方面軍間の協定に基づき、2月21日に現地協定が結ばれる〔#図説太平洋海戦史第3巻47頁〕。日本海軍航空隊はポートモレスビーおよびラビ方面の連合軍飛行場を、日本陸軍航空隊はワウとブナ方面の攻撃を行う〔#奥宮ラバウル(学研M文庫)229頁〕。だが日本海軍が同方面の航空兵力を半分集結させても、戦闘機約60、艦爆10、陸攻20、水上機10程度だったという〔。
現地では1月27日にワウの戦いが開始されたが2月24日までに撤退していた。
ウェワク輸送に関しては、2月20日から26日にかけて約1万3600名の陸兵と輸送物件の揚陸に成功した〔#奥宮ラバウル(学研M文庫)230頁〕。
第八十一号作戦ラエ輸送に関しては、第三水雷戦隊司令官木村昌福少将を護衛部隊指揮官とする駆逐艦8隻(第11駆逐隊《白雪》、第19駆逐隊《浦波敷波》、第8駆逐隊《朝潮荒潮》、第9駆逐隊《朝雲》、第16駆逐隊《時津風》、雪風)・陸軍輸送船7隻(大井川丸、大明丸、建武丸、帝洋丸、愛洋丸、神愛丸、旭盛丸)・海軍運送艦1隻(野島)の船団が編制され〔、同船団上空警戒は、ラバウルとカビエンの第204空や第253空および空母瑞鳳航空隊の零戦合計60機以上、陸軍戦闘機60機以上が担当する〔〔#高松宮日記6巻77-78頁『○第一空襲部隊(二-一九四二)三月二日』〕〔#高松宮日記6巻84-85頁『○第一空襲部隊(三-一九四七)三月三日(概報244)』〕。木村三水戦司令官はあくまで作戦に参加した一部隊の指揮官であり、総指揮官は南東方面艦隊第十一航空艦隊)司令長官である。
(秋月型駆逐艦以前に開発された日本海軍の駆逐艦全てに言えることであるが)護衛の駆逐艦はどれも対空装備は機銃程度しか積んでおらず、高角砲は無かった。また各駆逐艦にも陸軍兵と補給物資搭載の指示がなされた〔。
日本軍の作戦では、2月28日にラバウルを出航し、3月3日にラエ到着揚陸予定であった〔〔。事前に敵航空戦力を空爆により弱体化させる計画であり、夜間爆撃がラビ及びポートモレスビーに対して行われたが、前述のように航空戦力の過少と天候不良により不十分であった〔〔。軍令部は「輸送船の半分に損害はあるかもしれぬ」と判断していた〔。ラバウルに本拠地を置く日本軍基地航空隊(第十一航空艦隊、司令長官草鹿任一中将《南東方面艦隊司令長官兼務》)は、3月3日当日に重巡洋艦「青葉」と雷撃訓練を行うような状態だった〔。
上級司令部(大本営、軍令部、連合艦隊、南東方面艦隊《第十一航空艦隊、第八艦隊》)主導の作戦に対し、護衛部隊の第三水雷戦隊参謀であった半田仁貴知少佐は、八十一号作戦計画担当であった第八艦隊作戦参謀神重徳大佐に「この作戦は敵航空戦力によって全滅されるであろうから、中止してはどうか」と申し入れたが、神大佐から「命令だから全滅覚悟でやってもらいたい」と回答されたという〔戦史叢書96巻南東方面海軍作戦(3)ガ島撤収後 68頁〕。もっとも、本作戦はラエ輸送作戦を主張する陸軍と、マダンもしくはウェワク輸送を主張した日本海軍(連合艦隊)の、妥協の産物でもあった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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