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N&W ( リダイレクト:ノーフォーク・アンド・ウェスタン鉄道 ) : ウィキペディア日本語版
ノーフォーク・アンド・ウェスタン鉄道[のーふぉーく あんど うぇすたんてつどう]
ノーフォーク・アンド・ウェスタン鉄道(ノーフォーク・アンド・ウェスタンてつどう、N&W: 、報告記号はNW)は、200以上の鉄道会社を合併してできた、アメリカ合衆国1838年から1982年まで存在していた1級鉄道会社である。その150年間の歴史を通じて大半の期間、本社はバージニア州ロアノークにあった。
ノーフォーク・アンド・ウェスタン鉄道は、社内のロアノーク工場蒸気機関車ホッパ車を製造していたことで知られる。1960年頃、アメリカの主要な鉄道会社の中で最後に蒸気機関車からディーゼル機関車へと移行した。
20世紀中ごろ、ノーフォーク・アンド・ウェスタン鉄道は長年のライバルであった、ポカホンタス炭田で運行するバージニアン鉄道と合併し、さらにニッケル・プレート鉄道ウォーバッシュ鉄道など隣接地域の他の鉄道会社と合併を繰り返して規模と収益性を拡大し、合衆国内14州とカナダの1州に範囲を広げて、大西洋からミシシッピ川五大湖の間で7,000マイル(11,000km)以上に及ぶ路線網を形成した。
ノーフォーク・アンド・ウェスタン鉄道は、同じく収益性の高い鉄道会社であったサザン鉄道と合併して、1982年ノーフォーク・サザン鉄道となった。
== ウィリアム・マホーンによる建設と南北戦争 ==
ノーフォーク・アンド・ウェスタン鉄道は、ジェームズ川であるバージニア州シティポイント(City Point)(現在はホープウェル市となっている)から、アポマトックス川(Appomattox River)の滝線上にある同州ピーターズバーグまでを結んでいた、全長9マイル(14km)の短距離鉄道のシティ・ポイント鉄道City Point Railroad)に始まる。1854年、シティ・ポイント鉄道は、ピーターズバーグとリンチバーグを結びそこでバージニア・アンド・テネシー鉄道Virginia and Tennessee Railroad)やジェームス・リバー・アンド・カナワ運河James River and Kanawha Canal)と連絡していた、サウス・サイド鉄道South Side Railroad)の一部となった。
1847年にバージニア士官学校の工学課程を卒業したウィリアム・マホーンは、フランシス・マロリー博士(Dr. Francis Mallory)に採用されて1853年からノーフォーク・アンド・ピーターズバーグ鉄道Norfolk and Petersburg Railroad)の建設に関わり、南北戦争前の時期にその社長に就任した。バージニア州ノーフォークそばのグレート・ディスマル・スワンプ(大沼地帯、Great Dismal Swamp)を横断するために建設されたマローンの革新的な丸太道は、沼の表面の下に直角に材木の基礎を敷きこんだものであった。150年後の現在でもなお使用されており、膨大な石炭輸送の荷重に耐えている19世紀の非常に効果的な建設物である。
マホーンは、バージニア州アイルオブワイト郡のスミスフィールド(Smithfield)出身の、オテリア・バトラー(Otelia Butler)と結婚した。彼女は教養のある女性であったと言われている。彼女の父親、ロバート・バトラー博士(Dr. Robert Butler)は、バージニア州の財務長官であった。
有名な話として、オテリアとウィリアムは新しく完成したノーフォーク・アンド・ピーターズバーグ鉄道の52マイル(84km)のサフォーク(Suffolk)とピーターズバーグを結ぶ接線上の路線に乗って旅行しながら、当時彼女が読んでいたウォルター・スコット卿の書いたアイヴァンホーの中からに名前を付けていった。スコットランドの歴史的な小説の中から、ウィンザー(Windsor)、ウェーブリー(Waverly)、ウェークフィールド(Wakefield)の名前が選ばれている。彼女はまた、スコットランドの一族のMcIvorという名前からサウサンプトン郡のアイボア(Ivor)という小さな町の名前を作り出した。2人が合意できなかった場所では、2人はその「論争」を記念して新しい言葉を作り出したと言われ、それが小さなディスプタンタ(Disputanta)の町が名づけられた由来となっている。ノーフォーク・アンド・ピーターズバーグ鉄道は1858年に完成した。
南北戦争中、マホーンはアメリカ連合国陸軍少将となった。彼は1864年から1865年に掛けてのピーターズバーグ包囲戦中のクレーターの戦いでの活躍で英雄とみなされている。オテリアは連合国首都のリッチモンド看護師として働いた。
ノーフォーク・アンド・ピーターズバーグ鉄道のうち、ズニ(Zuni)にあるブラックウォーター川(Blackwater River)から東の部分は戦争の大半を通じて合衆国側の手にあり、戦争でかなりの被害を受けた。シティ・ポイント鉄道の東側は、合衆国側のユリシーズ・グラント将軍にとってピーターズバーグ包囲戦の中で重要な役割を果たしており、合衆国軍用鉄道(United States Military Railroad)の手で運行されていた。サウス・サイド鉄道もまたかなり破壊された。
アポマトックス1865年4月9日ロバート・E・リー将軍が降伏した後、配下の将軍たちに対して、帰還して南部の再建に力を注ぐように命じ、マホーンもこの指示に従った。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Norfolk and Western Railway 」があります。




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