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『鷺娘』(さぎむすめ)とは、歌舞伎および日本舞踊の演目のひとつ。鳥である鷺が、娘に姿を変じて踊るというもの。 == 解説 == ただし『鷺娘』と呼ばれるものについては三種類ある。以下それを年代順に掲げる。 *宝暦12年(1762年)4月、市村座 六変化舞踊『柳雛諸鳥囀』(やなぎにひなしょちょうのさえずり)のひとつ。二代目瀬川菊之丞が「鷺娘」を長唄で踊った。 *文化10年(1813年)3月、中村座 十二変化舞踊『四季詠寄三大字』(しきのながめよせてみつだい)のひとつ。三代目坂東三津五郎が長唄と常磐津の掛合いで踊ったもの。 *天保10年(1839年)3月、中村座 八変化舞踊『花翫暦色所八景』(はなごよみいろのしょわけ)のひとつ。四代目中村歌右衛門が長唄で踊ったもので「新鷺娘」とも呼ばれる。 このうち現在もっとも行われているのは宝暦12年に二代目菊之丞が踊ったものである。この菊之丞の『鷺娘』は初演以降、興行で取り上げられる事がなく振付けも絶えていたが、明治19年(1886年)の新富座で『月雪花三組杯觴』(つきゆきはなみつぐみさかづき)の雪の部に、九代目市川團十郎が初代花柳壽輔の振付けで復活し、のちに明治25年(1892年)の歌舞伎座でも『鷺娘』を演じて現行演出の基礎を作った。以後歌舞伎や日本舞踊において人気演目のひとつになっている。「新鷺娘」から曲の一部を使って踊ることが多い。 現行での内容は、まず冬景色の舞台面に鷺の精が現れる〔菊之丞が初演した時には舞台に大きな六角形の灯篭を置き、その灯篭が回ると中から踊り手が現れるという趣向だった。ちなみに江戸の舞台で廻り道具(廻り舞台)を使うようになったのはこれが最初だという。〕。その格好は白無垢の振袖に黒の帯、頭には綿帽子を被り傘をさし、鳥の所作などを見せる。そのあと衣裳を引き抜き華やかな振袖の娘姿となり〔現行では衣裳を数回替えるが、菊之丞所演では着替えをせず白い振袖のままで、さらに肌を脱いで襦袢を見せるだけだったらしい。また曲の中で「傘をや…」で始まる傘づくしと呼ばれるところでは、開いた傘を2本両手に持って踊ったという。現在でも日本舞踊の流派によっては、この2本の傘で踊ることがある。〕、恋の口説を見せたり傘を使って踊るなどする。しかしやがて鳥の本性が現れ、畜生ゆえに味わう責め苦のさまを見せて幕となる。ただし鷺娘が最後のほうで息絶えるような表現をするのは、バレエの『瀕死の白鳥』の影響を受けているという〔八代目坂東三津五郎によれば、鷺が最後に死ぬような踊りになったのは『瀕死の白鳥』の影響であり、それも大正以降のことで、また九代目團十郎所演の時も、最後は三段に上がり撞木を振り上げて見得をするだけだったという(『歌舞伎をつくる』147頁以降より)。ただし明治25年に團十郎が勤めた際には、最後は「刎釣瓶」(はねつるべ)という仕掛けで宙を飛び上手の方へと姿を消す演出だった。〕。 なお鷺から(または鳥から)人間になるという舞台例は『鷺娘』以前には無いといわれており、当時の菊之丞をはじめとする関係者がどこからこの発想を得たのかは不明である〔歌舞伎での動物の扱いとは、たいていはまず人間の姿となって舞台に現れ、それがのちに動物の正体を現わすというパターンである。葛の葉や『義経千本桜』の狐忠信などがあげられる。それが動物(鷺)の姿で舞台上に現れ、あとで人の姿になるというのはそれらの逆を行くものである。ただし早稲田大学演劇博物館には宝暦8年(1758年)に江戸で興行されたという竹田からくりの演目を描いた絵本が所蔵されているが、その中に「御田うへ朝日のしらさぎ」と題して早乙女姿で住吉踊りを演じる子供たちが白鷺に変ってゆくという演目がある。早稲田大学演劇博物館 デジタル・アーカイブ・コレクション の「番付」のカテゴリー内に画像がある。また菊之丞の『鷺娘』が初演される前年に、大坂の竹本座で『由良湊千軒長者』(ゆらのみなとせんげんちょうじゃ)という人形浄瑠璃の作品が初演されており、その中で山椒大夫の娘おさんが、雪の中で恋人を助けたい一心が募って人から鶏になってしまうという場面がある。或いはこうしたものもヒントになったかもしれないが、はっきりした事はわからない。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鷺娘」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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