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高木永二 : ミニ英和和英辞書
高木永二[たかぎ えいじ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [たか]
 【名詞】 1. quantity 2. amount 3. volume 4. number 5. amount of money 
: [き]
 【名詞】 1. tree 2. wood 3. timber 
: [に]
  1. (num) two 

高木永二 : ウィキペディア日本語版
高木永二[たかぎ えいじ]

高木 永二(たかぎ えいじ、1896年12月28日 - 没年不詳)は、日本の俳優である〔キネマ旬報社, p.302.〕〔''高木永二''、''jlogos.com'', エア、2013年1月18日閲覧。〕〔''高木永二''日本映画データベース、2013年1月18日閲覧。〕〔''高木永二''、日本映画情報システム、文化庁、2013年1月18日閲覧。〕〔''高木永二''東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年1月18日閲覧。〕〔''高木永二''KINENOTE、2013年1月18日閲覧。〕〔''高木永二''、日活データベース、日活、2013年1月18日閲覧。〕。本名高木 英二〔〔。『大地は微笑む』の主演、『新版大岡政談』、『織田信長』の助演で知られる〔。
== 人物・来歴 ==
1896年明治29年)12月28日〔(12月12日〔)、兵庫県神戸市に生まれる〔〔。
東京に移り、旧制・荏原中学校(現在の日体荏原高等学校)に入学、同校を卒業し、旧制早稲田大学予科(現在の早稲田大学高等学院)に進学する〔。同学予科を終了後の1916年(大正5年)、単身アメリカ合衆国に留学し、1918年(大正7年)に帰国する〔〔。1920年(大正9年)、神戸に帰って、ドイツ系資本の高級ホテル「トアホテル」(現存せず、現在跡地に神戸外国倶楽部)に勤務したが、1921年(大正10年)、東京に戻って、松竹蒲田撮影所に入社、満24歳のころから俳優生活を始める〔。
関東大震災後の1924年(大正13年)4月、日活京都撮影所第二部に移籍、同年5月1日に公開された溝口健二監督の『塵境』、同年6月20日に公開された同じく『七面鳥の行衛』で主演クラスの助演に抜擢され、注目を浴びる〔〔〔。1927年(昭和2年)7月22日に公開された木藤茂監督の『稲妻』では、高木が書いた原作が採用され、主演もこなした〔〔〔。時代劇にも出演し、伊藤大輔の『新版大岡政談』シリーズ(1928年)では蒲生泰軒を演じた〔〔〔。1928年(昭和3年)、女優の山下澄子と結婚する。
1932年(昭和7年)2月に奈良に設立された富国映画に移籍、『情熱の波止場』に主演し、『女性ヴァラエテイ』で監督としてデビューしたが、同社が同年6月に解散したため、日活太秦撮影所に再入社、時代劇俳優に完全に転向する〔〔〔。1933年(昭和8年)1月14日に公開された片岡千恵蔵プロダクション製作、伊丹万作監督の『刺青奇偶』では、片岡千恵蔵を相手に最後の賭博勝負をかける鮫の政五郎役、同年6月15日に公開された山中貞雄監督の『盤嶽の一生』では地主佐兵衛役を演じ、健在ぶりを示したという〔〔〔。1934年(昭和9年)には、東京に新設された現代劇のスタジオである日活多摩川撮影所(現在の角川大映撮影所)に異動する〔〔〔。
満45歳になり、1942年(昭和17年)3月7日に公開された田口哲監督の『将軍と参謀と兵』(戦後改訂新版『戦争と将軍』)を最後に、出演記録が途絶える〔〔〔。第二次世界大戦にあたっての戦時統合によって、同撮影所は大映東京撮影所となるが、戦中戦後の高木の消息はわからない〔。没年不詳〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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