|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 青 : [あお] (n) 1. blue 2. green 3. green light ・ 青木 : [あおき] (n) 1. Japanese laurel 2. spotted laurel 3. aucuba japonica 4. live tree ・ 木 : [き] 【名詞】 1. tree 2. wood 3. timber
青木 功 (あおき いさお、1942年8月31日 - ) は、千葉県我孫子市出身のプロゴルファーである。日本プロゴルフツアー永久シード保持者。2016年から日本ゴルフツアー機構(JGTO)会長。1980年に全米オープンで準優勝を果たすなど、尾崎将司、中嶋常幸と共にAON (エーオーエヌ) と呼ばれる日本を代表する名ゴルファーの一人である。日本ゴルフツアー通算51勝は歴代2位である。 == 略歴 == * 1956年 14歳の頃、我孫子ゴルフ倶楽部にて鷹巣南雄プロ <我孫子中学校時代(同級生) ・ 盟友> と共にキャディのアルバイトを介しゴルフと出会う。 * 1957年 我孫子中学校卒業と同時に東京都民ゴルフ場にキャディとして就職。 * 1958年、師匠である林由郎プロに引き抜かれ、我孫子ゴルフ倶楽部へ移籍。 * 1961年、飯能ゴルフ倶楽部へ移籍。 * 1964年 6月1日、二回目の受験でプロテストに合格。4月20日鎌ケ谷カントリークラブで36ホール147、6月1日大宮ゴルフコースで36ホール155(38-42-36-39)で、合格ラインに2打差で合格。 * 1965年、関東プロゴルフ選手権で日本ツアー・デビュー。 * 1971年、関東プロゴルフ選手権で日本ツアー初優勝。 * 1973年、国際興業配下の日本電建と所属契約締結。 * 1975年、マスターズの前座試合「パー3コンテスト」で、米国籍外選手として初の優勝。 * 1976年、初の日本ツアー賞金王。 * 1978年から1981年にかけて、4年連続で日本ツアー賞金王。 * 1978年、「世界マッチプレー選手権」で海外ツアー初優勝。同年、宏子夫人 (チエ夫人) との再婚を発表。 * 1980年、全米オープン2位。4日間「帝王」ジャック・ニクラスとラウンドし、死闘を繰り広げた。 * 1981年、正式な米国レギュラーツアーのライセンスを取得。マスターズ「パー3コンテスト」で二度目の優勝。 * 1982年、米国レギュラーツアーの賞金ランキング122位。日本人初のシード権を獲得。 * 1983年、ハワイアン・オープンで、日本人初の米国PGAツアー優勝。ヨーロピアンツアー「ヨーロッパオープン」優勝。 * 1989年、豪州ツアー「コカ・コーラクラシック」優勝。世界四大ツアー (日米欧豪) 優勝を達成。 * 1992年、米シニアツアー (現在の名称は「チャンピオンズツアー」) に主戦場を移し、同年の「ネーションワイド選手権」にて初優勝。 * 1994年から1997年にかけて、日本シニアオープンゴルフ選手権競技4連覇を達成。 * 1997年、青木功ジュニアクラブ発足。以後、ジュニアの育成にも力を注いでいる。 * 2001年、米シニアツアー「フォードプレーヤーズ選手権」にて、通算1,000試合出場を達成。 * 2004年、日本人男性として初の世界ゴルフ殿堂入り。 * 2007年、最終日に65をマーク、エージシュートを達成し逆転で日本シニアオープンゴルフ競技を10年ぶりに優勝。2002年のキャッスルヒルオープンで鷹巣南雄が樹立した「59歳4カ月」を6歳近くも塗り替え、「65歳2カ月」で大会を制した。 * 2008年、秋 紫綬褒章受章。11月9日の鬼ノ城シニアオープン最終日、最終ラウンドを66で周り、2度目のエージシュートを達成した上、優勝を果たした (プレーオフ、4ホール目にて) 。 * 2010年、同年2月より1ヵ月間、日本経済新聞社朝刊にて「私の履歴書」を連載。 * 2010年、5月9日、慈善ゴルフ、ザ・レジェンド・チャリティーで66を記録し、3度目のエージシュートを達成した。 * 2015年、秋の叙勲で旭日小綬章を受章。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「青木功」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|