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青木優 : ミニ英和和英辞書
青木優[あおき ゆう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [あお]
 (n) 1. blue 2. green 3. green light
青木 : [あおき]
 (n) 1. Japanese laurel 2. spotted laurel 3. aucuba japonica 4. live tree
: [き]
 【名詞】 1. tree 2. wood 3. timber 
: [ゆう]
  1. (adj-na,n) actor 2. superiority 3. gentleness

青木優 : ウィキペディア日本語版
青木優[あおき ゆう]
青木 優(あおき ゆう、生没年不詳)は、日本の脚本家である。大正末年から昭和初年にかけてのたった3年間のサイレント映画にクレジットされ、15本の脚本と1本の原作を残すのみだが、「マキノ東京派」の重要な脚本家である。
== 来歴・人物 ==
生年生地、前歴不詳。
1923年(大正12年)の関東大震災後に開所となった、京都の松竹下加茂撮影所の脚本部、あるいは助監督部に所属していたと思われる。映画史上では、1925年(大正14年)、同撮影所のヴェテラン・野村芳亭監督の『海賊髑髏船』の脚本家、当時22歳の若手・清水宏の『激流の叫び』の原作者として、忽然と現れる。
同年6月、牧野省三東亜キネマから分離・独立して「マキノ・プロダクション」を設立、新たに「御室撮影所」を開所したが、青木は、それと同時に移籍している。層の厚い松竹よりも、独立系のほうがチャンスがあるのは確かである。さっそく牧野総監督、沼田紅緑監督による『弁天小僧』、「春秋座」の役者の出演、同監督による『切られ与三郎』の脚本を任され、両作はそれぞれ、10月23日12月11日に公開された。
ひきつづき同年末、青木は同社で、『噫飯束巡査部長』と『クロスワード』という2本の現代劇の脚本を書いている。そのどちらも、マキノ設立に呼応して東京に設立された「タカマツ・アズマプロダクション」、その総帥・高松豊次郎の三男である弱冠20歳の高松操が監督し、前者は同年12月31日に、後者はその翌日、つまり翌1926年(大正15年)1月1日に2日連続して公開されている。どちらもマキノのお正月映画だが、前者は「マキノ・プロダクション御室撮影所」作品、後者は「マキノ・プロダクション東京撮影所」作品とクレジットされた。どちらもタカマツの「吾嬬撮影所」で平行して製作されたものである〔『日本映画監督全集』(キネマ旬報社、1976年)の「吉村操」の項(p.453-454)を参照。同項執筆は岸松雄。〕。そのわずか2週後の1月14日には、青木が書いた脚本で、牧野省三(「マキノ省三」名義)、富沢進郎橋本佐一呂が共同監督した「弥次喜多」ものである『山賊』が、直木三十五の「連合映画芸術家協会」作品として、二川文太郎監督のマキノ御室作品『延宝奇聞 美丈夫 前篇』と2本立てで公開されている。
こうして年末の2か月にも満たない間に都合4本もの脚本を書いた青木は、「マキノ東京派」の拠点であったタカマツの「吾嬬撮影所」に残留し、1926年から1927年(昭和2年)にかけて、高松操、横田豊秋友成用三荒川清といった監督たちに合計7本脚本を書いたが、タカマツ・アズマプロダクションは青木脚本・高松監督の『愛染手網 前後篇』を最後に同年活動を停止した。
1928年(昭和3年)早々に、青木は2本のオリジナル脚本を書いた。その2本は、日活太秦撮影所、等持院の東亜キネマ京都撮影所でそれぞれ映画化され、それぞれ日活系、東亜系の各劇場で、3月7日3月15日と2週連続で公開された。この2作を最後に、青木は脚本家としてクレジットされることはなかった。
1929年(昭和4年)3月、東亜キネマの親会社八千代生命出身の小笹正人東亜キネマ京都撮影所長が東亜を退社、同年7月25日には牧野省三が亡くなっている。牧野没後の「マキノ・プロダクション御室撮影所」の所長には小笹が就任、牧野の長男で監督のマキノ正博が撮影部長、次男のマキノ満男が総務部長、監督の橋本左一呂が整理主任、といった新体制のなかで、青木は「編成主任」に名をつらねている〔立命館大学衣笠キャンパスの「マキノ・プロジェクト」サイト内の「1929年 マキノ・プロダクション御室撮影所 所員録 」の記述を参照。〕。
1930年(昭和5年)12月にマキノ・プロダクションは倒産するが、以降の青木の消息はわからない。5年後の1935年(昭和10年)11月にマキノ正博が設立した「マキノ・トーキー」が発表した同社の陣容には、青木の名はみつけられない〔マキノ雅裕『映画渡世 天の巻 - マキノ雅弘自伝』(平凡社、1977年 / 新装版、2002年 ISBN 4582282016)の記述を参照。〕。そのキャリアから、どんなに若く見積もっても明治末年生まれであり、現在も存命中であるならば、100歳を超える年齢となっている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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