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雨宮製作所 : ミニ英和和英辞書
雨宮製作所[あめみやせいさくじょ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [あめ]
 【名詞】 1. rain 
: [せい]
  1. (n,n-suf) -made 2. make 
製作 : [せいさく]
  1. (n,vs) manufacture 2. production 
製作所 : [せいさくじょ]
 【名詞】 1. works 2. factory 3. plant
: [さく]
  1. (n,n-suf) a work 2. a harvest 
: [ところ, どころ]
 (suf) place

雨宮製作所 : ウィキペディア日本語版
雨宮製作所[あめみやせいさくじょ]

雨宮製作所あめみやせいさくじょ〔1930年(昭和5年)に九十九里鉄道へ納入したキハ201の『雨宮製作所カタログ』では、ローマ字表記で“AMEMIYA SEISAKUJO”と記述されている --『軽便鉄道時代』(p159)より。〕)は、明治末期から昭和初期にかけて鉄道車両を製造していた企業
1907年、鉄道資本家であった雨宮敬次郎の個人経営の工場「雨宮鉄工所」として操業を開始した。
== 沿革 ==
雨宮は大日本軌道〔設立は1908年(明治41年)7月『銀行会社要録 : 附・役員録. 第十三版』 (国立国会図書館デジタルコレクション)『軽便王国雨宮』では8月〕という全国に支社(路線)を展開する蒸気軌道を運営しており、その路線へ車両を自家生産し廉価に供給することを目的としたとされる。
深川区和倉町に雨宮鉄工場(後に株式会社雨宮鉄工所)を1907年(明治40年)11月に設立した〔『工場通覧』明治42年 小川の調べでは大日本軌道への統合直前におそらく税法上の必要性から株式会社雨宮鉄工所を1911年7月18日に設立している(「商業登記」『官報』1911年7月25日 )〕〔工場敷地の資金はのぶ子夫人のへそくりから(『経済風土記. 東海關東の卷』 )と伝えられているが『夫婦成功美談』 によるとのぶ子夫人は1903年(明治36年)になくなっておりつじつまがあわない〕。その後1911年(明治44年)1月に敬次郎がなくなると大日本軌道は娘婿の亘が社長に、養子の豊次郎が常務取締役となり経営を引き継ぎ、7月に雨宮鉄工所は大日本軌道と合併し大日本軌道鉄工部となった。工場は第一次大戦後の好況に乗じ業績を伸ばしていた〔職工数をみると年ごとに増加している。大正7. 8年度117人 大正9年度137人 大正10年度213人 『工場通覧』各年度版(国立国会図書館デジタルコレクション)〕。亘は1918年(大正7年)になくなり豊次郎が大日本軌道の社長に就任すると工場は1919年(大正8年)7月に独立して株式会社雨宮製作所となった〔『日本全国諸会社役員録. 第28回』 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕。代表取締役は晩年の敬次郎の秘書役であり大日本軌道の常務取締役の小澤信之甫が代表取締役になり豊次郎は取締役に他の取締役も雨敬の関係者が就任していた。しかし1922年(大正11年)になると代表取締役の小澤を除き雨宮一族と雨敬の関係者は姿を消した〔『日本全国諸会社役員録. 第30回』 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕。
1923年(大正12年)に発生した関東大震災によって東京深川にあった工場が壊滅してしまう。その後は再建に乗り出し、1927年(昭和2年)に新潟鐵工所と共同で日本初のディーゼル機関車を、1928年(昭和3年)には日本初のディーゼル動車(長岡鉄道キロ1形)を製作するなど、新技術開発に意欲的であった。
ところが昭和金融恐慌の波に呑まれ地方私鉄の開業は途絶えて受注は激減し、1931年(昭和6年)には倒産、事実上活動を停止してしまう。同年に一旦合資会社雨宮工場として再起を図り、倒産前の仕掛品を中心に細々と製品出荷を行った〔豊州鉄道(後の大分交通豊州線)ジ12(40人乗り2軸ガソリンカー。1931年製)や能登鉄道キホハニ1(70人乗り荷物室付き2軸ボギー式ガソリンカー。1932年2月製)などが同工場名義で出荷されている。〕〔『軍機保護法下の汽車・軽便』p.129、『北陸道 点と線(下)』p.68。〕が、それも1932年(昭和7年)の神中鉄道キハ1 - 6の大改造工事を最後に活動の形跡が絶えており〔『北陸道 点と線(下)』p.68。〕、最終的に1934年(昭和9年)ごろに会社は整理されたものと考えられている〔『銀行会社要録 : 附・役員録. 38版 昭和9年刊行』 が最後で『銀行会社要録 : 附・役員録. 39版 昭和10年刊行』 には掲載されていない(国立国会図書館デジタルコレクション)〕。
生産品は小型の蒸気機関車から客車電車気動車まで多岐にわたる。機関車の主な納入先は私鉄であり、国鉄には工事用としてケ100形100 - 105(1919年)およびケ160形160 - 169(1922年)の2形式が納入されており、他に専用鉄道、森林鉄道、海軍にも納入されている。

*1907年(明治40年)11月 雨宮鉄工場設立
*1911年(明治44年)
 *1月 雨宮敬次郎死去
 *7月18日 株式会社雨宮鉄工所設立
 *7月 大日本軌道と合併し大日本軌道鉄工部となる
*1918年(大正7年) 雨宮亘死去
*1919年(大正8年)7月 株式会社雨宮製作所設立
*1923年(大正12年)9月 関東大震災により工場壊滅
*1931年(昭和6年) 合資会社雨宮工場設立

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「雨宮製作所」の詳細全文を読む




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