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陽泰院 : ミニ英和和英辞書
陽泰院[ようたいいん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [よう]
  1. (adj-na,n-adv,n) way 2. manner 3. kind 4. sort 5. appearance 6. like 7. such as 8. so as to 9. in order to 10. so that 1 1. yang 1
: [たい]
 【名詞】 1. Thailand  

陽泰院 : ウィキペディア日本語版
陽泰院[ようたいいん]
陽泰院(ようたいいん、天文10年(1541年) - 寛永6年1月8日1629年2月1日))は、戦国時代から安土桃山時代江戸時代にかけての女性。
肥前佐賀藩の藩祖鍋島直茂の正室であり、初代藩主鍋島勝茂の生母である。
名は、彦鶴(ひこつる)姫、後に(ふじ)。家中では、御簾中、藤の方、北の方等と呼ばれた。領民からは国母様と慕われ、今に至るまで夫の直茂とともに佐賀県民に人気が高い人物の一人である。
== 生涯 ==
肥前国佐嘉郡与賀郷飯盛村(現在の佐賀県佐賀市本庄町鹿子)の領主石井常延の次女として、石井家の居城飯盛城で生まれた。生母は九州千葉家連枝の黒尾氏(蓮華院日長尼)。父常延は、肥前国の戦国大名龍造寺隆信の家老職をつとめていた。
彦鶴は、父と同じく龍造寺家の家老職を勤める家柄である納富信澄に嫁いだ。しかし、永禄9年(1566年)に夫信澄が戦没したため、信澄との間に儲けた娘一人(慈光院)を連れて実家に戻った。
あるとき、有馬晴純との合戦に勝利した龍造寺隆信が、鍋島直茂らと軍勢を従えて、佐賀城への途中、飯盛城に立ち寄り、昼食をとった。飯盛城の城主・常延は、とりあえず鰯を焼いて振る舞うことにしたが、隆信の供の人数が多く、城の台所では侍女たちがなかなか人数分の鰯を焼くことができずに手間取っていた。すると彦鶴が現れて、侍女たちを「手際が悪い」と叱責したのち、自ら釜戸の火をかき出してと庭先に広げ、その上に鰯を並べて、さっと大量の鰯を焼き上げた。この機敏なの姿に感嘆した鍋島直茂は「あのように機転の利く妻を持ちたい」と思い、彦鶴姫に求婚したという逸話が、『葉隠』に伝えられている。永禄12年(1569年)、直茂32歳、彦鶴29歳で結婚。譜代家臣団の名門鍋島家と石井家の縁組とあって、主君龍造寺隆信も大変喜んだとされる。夫の直茂とは当時では珍しく、今でいう恋愛結婚であったことから、安土桃山時代の代表的な夫婦として名高い。
夫直茂は、龍造寺隆信の重臣として活躍し、隆信の覇業に多大な貢献をした。直茂は戦場に身を置くことが多く、彦鶴はそんな夫を陰で支え続けた。気丈夫で聡明、かつ慈悲深い性格が伝えられている。『葉隠』によると、夫直茂との仲は終世よく、隠居した直茂とともに穏やかな老後の生活を送っている様子もみられる。また、夫とともに家臣・領民を思いやる記述もみられる。
陽泰院は鍋島氏が名実ともに佐賀藩主となったことを見届けて、89歳の長寿を全うした。夫直茂が死去し、落飾して10年後のことであった。墓所は鍋島家の菩提寺高伝寺に造営され、墓石はかつて夫直茂が朝鮮に出陣した折、陣中で一夜の枕とした石を持ち帰っていたものが用いられ、直茂の墓石に寄り添うように建てられた。
佐賀県佐賀市嘉瀬町にある西林寺は、陽泰院が晩年開基した寺院である。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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