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長谷川萬次郎 : ミニ英和和英辞書
長谷川萬次郎[はせがわ]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [おさ]
 【名詞】 1. chief 2. head 
谷川 : [たにがわ]
 【名詞】 1. mountain stream 
: [かわ]
 【名詞】 1. river 2. stream 
: [まん]
  1. (num) 10,000 2. ten thousand (used in legal documents)
: [つぎ]
  1. (n,adj-no) (1) next 2. following 3. subsequent 4. (2) stage 5. station 

長谷川萬次郎 ( リダイレクト:長谷川如是閑 ) : ウィキペディア日本語版
長谷川如是閑[はせがわ にょぜかん]

長谷川 如是閑(はせがわ にょぜかん、1875年明治8年)11月30日 - 1969年昭和44年)11月11日)は、日本ジャーナリスト文明批評家、評論家作家。明治・大正・昭和と三代にわたり、新聞記事・評論・エッセイ・戯曲・小説・紀行と約3000本もの作品を著した。大山郁夫らとともに雑誌『我等』(後に『批判』)を創刊し、大正デモクラシー期の代表的論客の一人。「如是閑」は雅号、本名は萬次郎。
== 略歴・人物 ==

=== 家族・生い立ち ===
東京府東京市深川区深川扇町(現在の東京都江東区木場)で、山本徳治郎・たけの次男として生まれる。山本家は江戸城築城に携わった棟梁の家系で、代々幕府から俸禄を受けていたが、徳治郎の代からは材木商を営んでいた〔父の山本徳治郎は後に浅草に「花屋敷」を開業している。これは、現在の「浅草花やしき」である。〕。1884年(明治17年)、曾祖母養子となり長谷川に改姓した。兄は東京朝日新聞社記者であった山本笑月、弟は日本画家の大野静方である。
1881年(明治14年)深川区万年町公立明治小学校(現在の江東区立明治小学校)入学、翌年下谷区御徒町私立島本小学校に転校している。1885年(明治18年)には本郷真砂町の坪内逍遥の塾に通い、つづいて1886年(明治19年)11歳で小石川区小日向にあった中村正直の同人社にも通ったが落第している。その後、神田淡路町の共立学校に一時期在籍し、1889年(明治22年)明治法律学校(現在の明治大学予科に転校、同じ頃東京英語学校にも入学している。翌年の1890年(明治23年)東京法学院予科(英吉利法律学校予科から改称、のちの中央大学予科)に転校した(入学後まもなく同科は廃止となる)。当時、東京英語学校の教師には杉浦重剛志賀重昂がおり、その影響もあって陸羯南が経営と論陣を仕切る新聞『日本」を熱読するようになった〔松岡正剛の千夜千冊「長谷川如是閑”倫敦! 倫敦?”」 〕。
こののち、東京英語学校が1892年(明治25年)神田の大火により校舎が類焼し休校となったため、国民英学会へ移る。1893年(明治26年)18歳のときに東京法学院(中央大学の前身)英語法学科に入学した。家庭の事情で一時休学したが、1896年(明治29年)邦語法学科へ再入学し、1898年(明治31年)同校を卒業した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Hasegawa Nyozekan 」があります。




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