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金剛山電鉄 : ミニ英和和英辞書
金剛山電鉄[こんごうさん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [きん]
  1. (n,n-suf) (1) gold 2. (2) gold general (shogi) (abbr) 
金剛 : [こんごう]
 【名詞】 1. (1) vajra (indestructible substance) 2. diamond 3. adamantine 4. (2) thunderbolt 5. Indra's weapon 6. Buddhist symbol of the indestructible truth
: [やま]
 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point 
電鉄 : [でんてつ]
 【名詞】 1. electric railway 
: [てつ]
 【名詞】 1. iron 

金剛山電鉄 ( リダイレクト:金剛山電気鉄道 ) : ウィキペディア日本語版
金剛山電気鉄道[こんごうさんでんきてつどう]

金剛山電気鉄道(こんごうさんでんきてつどう、クムガンサンでんきてつどう、クムガンサンチョンギチョルト)は、日本統治時代の朝鮮で運行されていた電気鉄道路線。現在、路線跡は軍事境界線で南北に分断されている。
総延長は100kmを越す長距離運転の電気鉄道であった。
== 概要 ==

現在、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)統治下の金剛山は、観光地として有望な場所であったにもかかわらず、交通手段が極めて貧弱であった。そのような中、皇居二重橋の設計者で日本や台湾、朝鮮での鉄道建設工事を請け負ってきた久米民之助が、1918年に金剛山周辺を踏査した。久米は東側が急で西側が緩やかな朝鮮半島の地形に着目し、金剛山の北側を流れ、漢江に合流して黄海へと注ぐ化川河の水を、トンネル日本海側に導くことによって水力発電を行い、その電力で京元線の鉄原から金剛山の麓まで電気鉄道を建設しようという計画を立てた。そして事業の賛同者を募り、久米民之助を中心として1919年に金剛山電気鉄道株式会社が設立された。
1920年にまず水力発電用のトンネル工事に着手、そして1921年には鉄道本体の工事が起工された。会社設立がちょうど第一次世界大戦後の不況期にぶつかり経営に苦心した。また建設開始当初は軌間1067mmの狭軌を用いる予定であったが、金剛山電気鉄道株式会社の取締役であり、鉄道界の重鎮であった古川阪次郎の提言により1921年になって1435mmの標準軌(俗に言う広軌)にすることに変更された。
1923年には鉄道の第一期工事と水力発電所は完成し、電車の準備も整い1923年11月には開業を予定していた。しかし関東大震災による火災で、芝浦製作所(現:東芝)に製作を依頼していた電車用の電動発電機が焼失してしまい、結局、南満州鉄道(満鉄)から借りた蒸気機関車客車で、1924年8月1日に鉄原 - 金化間28.8kmの運行を開始し、同年の10月には直流1500Vで電化された。
そして1931年7月1日、鉄原 - 内金剛間の全線116.6kmが開業した。開業後は5月から10月にかけての観光シーズンの日・祝日前には朝鮮総督府鉄道からの直通夜行列車が設定され、金剛山観光用の割引切符が発売されるなど活況を収め、東海北部線の開通とも相まって、金剛山は一大観光地へと発展した。金剛山電気鉄道も観光コースの整備を行ったり直営の観光バスを運行したりするなど金剛山観光の振興に努めた。また末輝里から金剛山を越える鉄道を延伸させ、東海北部線に接続する計画もあったが果たせなかった。
金剛山電気鉄道は設立の経緯でも分かるように、有望な電力開発の見込みがあったために鉄道を作る計画が立てられた。そのために鉄道業とともに電力業も兼営しており、鉄道よりも電力で挙げる収益の方が大きかった。やがて戦時体制の強化の中、電力統制の方針によって朝鮮半島内の電力会社の統合が進められ、1942年1月1日、金剛山電気鉄道株式会社は京城電気(当時、京城市電を経営していた)に合併されることとなった。その後、金剛山電気鉄道は京城電気の金剛山電鉄線へと経営主体が変わった。そして、日中戦争太平洋戦争の影響で、1944年には昌道 - 内金剛間49kmが不要不急路線として廃止され、終戦後、朝鮮半島が北緯38度線を境に南北に分断されたが、当時は全線が北側に位置していた。南北分断から朝鮮戦争までの間は北朝鮮の手で運行されていたが、朝鮮戦争により設備も多くが破壊され、軍事境界線が現在の位置に確定した結果、運行路線が分断され、時期不明で消滅した。
現在、平壌の鉄道事跡館に金剛山電気鉄道の電車1両が、金日成が乗車した車両ということで展示されている。同時代の日本の新京阪鉄道P-6形によく似た外観をしており、『将軍様の鉄道 北朝鮮鉄道事情』(国分隼人著、新潮社、2007年)に写真が掲載されている。
金剛山電気鉄道は金剛山観光客の輸送を目的として建設された鉄道なので、観光シーズンである5月 - 10月とオフシーズンである11月 - 4月とでダイヤ改正を行うのが恒例となっていた。年によって多少の変遷はあったが、オフシーズンは鉄原 - 内金剛間には3往復の電車運行であったものを、観光シーズンには1往復増発する形を取ることが多かった。鉄原 - 内金剛間運行のうち1往復には、二等車三等車のほかに連結していた。他に鉄原 - 金化、鉄原 - 昌道間の区間電車もそれぞれ1往復程度あった。全線の所要時間はおよそ4時間 - 5時間だった。
また金剛山電気鉄道は電気機関車を所有しておらず、貨車の牽引は電車が行っていた。当時、昌道に硫化鉄鉱の大きな鉱山があり、その貨物輸送も金剛山電気鉄道の重要な収入源であった。昌道から運ばれた硫化鉄鋼の多くは興南日窒コンツェルン工場に運ばれていた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Geumgangsan Line 」があります。




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