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野中郁次郎 : ミニ英和和英辞書
野中郁次郎[のなか いくじろう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [の]
 【名詞】 1. field 
野中 : [のなか]
 【名詞】 1. in the middle of a field 
: [なか]
 【名詞】 1. inside 2. middle 3. among 
: [つぎ]
  1. (n,adj-no) (1) next 2. following 3. subsequent 4. (2) stage 5. station 

野中郁次郎 : ウィキペディア日本語版
野中郁次郎[のなか いくじろう]

野中 郁次郎(のなか いくじろう、1935年5月10日 - )は、日本経営学者一橋大学名誉教授日本学士院会員知識経営の生みの親として知られる。2002年紫綬褒章受章。元組織学会会長。
== 人物・経歴 ==
東京都墨田区出身。父は職人太平洋戦争中、疎開先の静岡県吉原町(現富士市吉原)でグラマンF6Fヘルキャットによる機銃掃射を受け九死に一生を得る。笑いながら機銃掃射を行う米兵の姿を見て復讐を誓った。兄と同じ東京都立第三商業高等学校に進学するが簿記珠算に興味がわかず、卒業要件の簿記3級と珠算3級を得ることができず、卒業が危ぶまれる状況になったため、教員の計らいで商業コースから進学コースに移り、複数の私立大学仏文科、独文科、政治学科などを受験。その中で唯一受かった早稲田大学政治経済学部政治学科に進学した。大学に合格した時は、教員から「お前でも受かるのか。」と驚かれたという。父からは政治家になることを期待されたが、政治学にはほとんど興味が沸かず、大学の授業にはあまり出ず、政治サークルやESSでの活動に熱中した〔「「野中先生、なぜ経営学の道に進まれたのですか?」――賢人の原点を探る 野中郁次郎 一橋大学名誉教授×青野慶久(1)」 〕。
大学卒業後は、兄の友人が務めていた富士電機製造株式会社に入社。就職活動では朝日新聞社も受けていたが、補欠合格だったため、兄の友人の紹介で富士電機製造を受けたところ、たまたま論文試験で大学時代に唯一関心を持って学んだ事項が出たため合格したという。入社後は3年間の工場勤労担当を経て、幹部研修の企画、労働組合執行役員、幹部教育、マーケティング財務経営企画などを担当。また職場の同僚と結婚した。会社で様々な業務を担当する中、経営学の手法が全てアメリカから来ていることに気づき、アメリカ留学を決意。いくつか願書を出し、1967年、最初に入学許可が出たカリフォルニア大学バークレー校経営大学院に進学。この際留学資金は知人が株投資に失敗して失ってしまったため、会社は退職ではなく休職扱いとしてもらえ、また人事部長からの50万借り入れや、友人からのカンパで資金を捻出したという〔「一橋大学名誉教授・野中郁次郎先生前編」 公文式〕。アメリカでは妻が働き生活を支え、経営学修士MBA)取得を経て、1972年9月カリフォルニア大学バークレー校経営大学院博士課程を修了し、博士号を取得した。指導教員はフランセスコ・M・ニコシア。専攻はマーケティング及び社会学で、社会学の指導教員はニール・J. スメルサーアーサー・スティンチコームだった。博士論文は日本で『組織と市場』として出版され日経・経済図書文化賞を受賞。のちにコンティンジェンシー理論に発展した〔「一橋大学名誉教授・野中郁次郎先生後編」 公文式〕。
大学院在学中から村松恒一郎南山大学経営学部長(のちに一橋大学教授)の計らいで南山大学経営学部研究生や助手を務め、博士号取得後は南山大学で助教授、教授を務めた。1979年、富士電機製造時代に留学費用を貸付してくれた元人事部長から日本軍の研究を勧められて、京都大学時代の指導教官であった猪木正道防衛大学校学校長の自宅に訪れたところ、気に入られ、防衛大学校教授に就任する。当時は自衛隊に対するイメージが悪く、右翼と思われ次の就職がなくなるからやめておいた方がいいという周囲の反対を押し切っての就任だった。この日本軍研究の成果はのちに『失敗の本質』として出版され、大きな反響を呼んだ。
1982年、今井賢一一橋大学教授の紹介で、一橋大学商学部附属産業経営研究施設(現・同大学イノベーション研究センター)教授に就任。一橋大学産業経営研究施設に同じ年に採用されたマルクス経済学系の日本史学者米倉誠一郎助手と親しくなり、米倉助手をハーバード大学に留学させ経営史学者に転向させた〔「チャンドラー博士を偲んで (学際人の肖像 アルフレッド・D・チャンドラー)」 学際(22): 142-152〕〔「シリコンバレー ― ハイテク聖地の歴史」 社団法人如水会〕。また沼上幹(のちに一橋大副学長)、網倉久永(のちに上智大学教授)などを指導。1983年竹内弘高ハーバード大学助教授を、一橋大学助教授として招き、ハーバード・ビジネス・スクール創立50周年カンファレンスのため今井教授、竹内助教授とともに日本企業の新製品開発プロセスの調査研究を開始。1986年『ハーバード・ビジネス・レビュー』に研究をまとめた論文が掲載され「ナレッジマネジメント」の概念が広く知られるようになった〔〕。
1997年から5年間、小林陽太郎富士ゼロックス元社長がカリフォルニア大学バークレー校ハース・ビジネススクールに知識学寄附講座を開設し、野中教授は特別名誉教授に就任した。2004年、「講書始の儀」進講者。エーザイ取締役・指名委員会委員長、富士通取締役、元雪印乳業監査役(2002年まで)等を歴任。2006年事業創造大学院大学非常勤教員就任。2010年富士通総研理事長就任。同年瑞宝中綬章を受章した〔〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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