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郭黙 : ウィキペディア日本語版
郭黙[しじま]
郭黙(郭默、かく もく、生年不詳 - 330年)は、中国晋代軍人は玄雄。本貫河内郡懐県
== 経歴 ==
若い頃は身分が低く、壮勇として河内郡太守の裴整に仕え、督将となった。
永嘉の乱のとき、取り残された人々を率いて自ら塢主となった。漁船で東方に向かい、数年で巨富を作ると、多くの流民を集めた。あるとき妻の兄の陸嘉が官米数石を取って妹に食べさせた。郭黙は陸嘉が決まりに違反したとして殺そうとし、陸嘉は恐れて石勒のもとに亡命した。郭黙は自ら妻を射殺して、無私の姿勢を示した。郭黙は使者を劉琨のもとに派遣し、劉琨は郭黙を河内郡太守に任じた。
314年建興2年)、劉淵は族子の劉曜を派遣して郭黙を攻撃させた。劉曜は郭黙を包囲して飢えさせようとした。郭黙は妻子を人質として送って、穀物の売買を求めた。穀物の取引を終えると、防備を固めた。劉曜は怒って、郭黙の妻子を黄河に沈めて、郭黙を攻撃した。郭黙は弟の郭芝を劉琨のもとに派遣して救援を求めさせた。劉琨は郭黙が狡猾なことを知っていたため、郭芝を留めて救援を遅らせた。郭黙はさらに人を派遣して急を告げさせた。たまたま使者は郭芝が城を出て馬に入浴させているところに出くわし、強引に連れ帰った。そこで郭黙は郭芝を石勒のもとに人質として派遣したが、石勒は郭黙に偽りが多いとみなしていたため、郭黙の親書を封じたまま劉曜に与えた。郭黙は人を派遣して石勒の親書を伺わせると、包囲を突破して李矩を頼って帰順した。
317年建武元年)、李矩が劉暢の攻撃を受けると、郭黙は郭芝に兵を与えて救援させ、劉暢を破った。李矩は郭芝に馬500匹を与えて、軍を三道に分けて夜間に追撃させると、また大勝して凱旋した。
318年大興元年)、郭黙は潁川郡太守に任じられた。320年(大興3年)、弘農郡太守の尹安や振威将軍の宋始らの4軍が洛陽に駐屯すると、郭黙はまた李矩とともに1000騎を送って洛陽に駐屯させた。尹安ら4将は石勒に降り、石勒が石生に5000騎を与えて洛陽に進軍させたため、郭黙と李矩の軍は洛陽から撤退した。まもなく4将がまた石勒から離反したため、郭黙は歩兵500人を率いて洛陽に入った。
郭黙は祖約を攻撃しようと図り、李矩がこれを止めたが、単独で出兵して祖約に敗れた。石勒がその養子の石匆を派遣して郭黙を襲撃して、郭黙は敗れた。郭黙はやむをえず劉曜に降ろうと、参軍の鄭雄を李矩のもとに派遣して相談したが、李矩は許さなかった。
325年太寧3年)、後に石勒の将の石生が河南で大規模な略奪を展開したため、郭黙と李矩は飢えに悩んだ。郭黙はまた劉曜に降ろうと主張した。李矩も石良に敗れたばかりだったため、郭黙の策に従い、劉曜に使者を送った。劉曜は従弟の劉岳の軍を河陰に派遣し、李矩とともに石生を攻めようとした。石勒は将軍を派遣して劉岳を包囲した。郭黙は石匆に敗れて、陽翟に逃れ、東晋に亡命しようとした。李矩はこれを聞いて激怒し、部将の郭誦らを派遣して追いかけさせた。郭誦は襄城で郭黙に追いついたが、郭黙は妻子を捨てて単騎で逃走した。郭黙は建康に到着すると、明帝により征虜将軍の位を受けた。326年咸和元年)、劉遐が死去すると、郭黙は北中郎将・監淮北軍事・仮節となった。劉遐の旧部下の李龍らが反乱を起こすと、郭黙は右衛将軍の趙胤らとともに反乱を鎮圧した。
327年(咸和2年)、東晋の朝廷が蘇峻を建康に召還しようとしたとき、蘇峻の反乱を恐れて、郭黙を後将軍に任じ、屯騎校尉を兼ねさせた。蘇峻が反乱を起こすと、郭黙は緒戦に功績を挙げた。328年(咸和3年)、東晋の官軍が敗れて建康が陥落すると、郭黙は庾亮や趙胤らとともに尋陽に逃れた。大業・曲阿・庱亭の3塁を築いて、反乱軍の軍勢を分断することとなり、郭黙は郗鑒とともに塁を守った。蘇峻の部将の韓晁らが大業塁の郭黙を攻撃すると、塁の中は水不足に悩んだため、郭黙は人馬を分けて南門から脱出させ、残る人に塁を守らせた。蘇峻が死去し、包囲が解かれると、郭黙は召還されて右軍将軍となった。
かつて郭黙が尋陽に逃れたとき、劉胤や参佐の張満らが郭黙を侮蔑したことがあり、郭黙は恨みを抱いていた。329年(咸和4年)、劉胤は王導の支持により江州刺史となったが、郗鑒や郭黙は劉胤を認めなかった。330年1月29日(咸和4年12月壬辰)、郭黙は尋陽の劉胤を襲撃して殺害し、劉胤の僚佐の張満や荀楷らを捕らえ、かれらが反乱を計画していたと誣告した。劉胤の首級を建康に送り、江州の府を掌握すると、桓宣王愆期らを招聘した。王愆期が難を恐れて、郭黙に江州刺史となるよう勧めたため、郭黙は平南将軍・江州刺史を称した。王愆期はまもなく廬山に逃れ、桓宣は召しに応じなかった。
王導は郭黙を抑えられないことを懸念して、大赦を発し、劉胤の首級を大航に晒し、郭黙を西中郎将・豫州刺史に任じた。武昌郡太守鄧嶽がこの経緯を太尉陶侃に伝えると、陶侃は「此れ必ず詐りなり」と言って起兵し、郭黙の罪を上疏した。王導がこれを聞くと、晒されていた劉胤の首級を収容し、庾亮に命じて陶侃が郭黙を討つのを助けさせた。郭黙は南の豫章に移りたかったが、陶侃の行動が速く、尋陽城下に土山を築かれて、包囲を受けた。東晋の官軍が続々と集まり、包囲は幾重にもなった。陶侃は郭黙の驍勇を惜しんで、生きて投降させようと、郭誦を派遣して郭黙と会見させたが、郭黙は降伏を了承しなかった。尋陽への攻撃は激しくなり、郭黙の部将の宋侯が郭黙を捕らえて官軍に降った。同年6月21日(咸和5年5月乙卯)、郭黙は軍門に斬られた。首級は建康に送られた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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