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賈秀 : ウィキペディア日本語版
賈秀[か しゅう]
賈秀(か しゅう、生年不詳 - 469年)は、中国北魏政治家本貫武威郡姑臧県
== 経歴 ==
賈彝の子として生まれた。中書博士を経て、中書侍郎・太子中庶子・揚烈将軍となり、陽都男の爵位を受け、本州大中正をつとめた。文成帝のとき、爵位は陽都子に進み、振威将軍の位を加えられた。丞相乙渾が北魏の朝廷で専権をふるうようになると、乙渾の妻が公主の称号を求めたが、賈秀は「公主の称や王姫の号は、拓跋氏でない者にはふさわしくない」として取り合わなかった。乙渾は多くの人物を殺害していたため、周囲の人々は恐怖にふるえたが、賈秀は乙渾夫妻を怒らせて平然としていた。たまたま乙渾が殺害されたため、賈秀は難を免れた。
あるとき、賈秀と高允の長子を郡太守として出向させる辞令が出たが、賈秀は「功績のない子に先達を超えさせてはいけない」と言って固辞した。
賈秀は5人の皇帝に歴仕して、大官に上ることはなかったが、つねに機密を扱うところにいた。清廉質素な生活を送り、資産を作らなかった。469年、死去した。本将軍・冀州刺史・武邑公の位を追贈された。は簡といった。
子の賈儁は、を異隣といい、顕武将軍・荊州刺史となった。後に洛州刺史となり、学官を置いて教育につとめた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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