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貴族代表議員 : ミニ英和和英辞書
貴族代表議員[きぞくだいひょうぎいん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

貴族 : [きぞく]
  1. (n,adj-no) noble 2. aristocrat 
: [よ, しろ]
 【名詞】 1. world 2. society 3. age 4. generation 
代表 : [だいひょう]
  1. (n,vs) representative 2. representation 3. delegation 4. type 5. example 6. model 
: [ひょう]
  1. (n,n-suf) table (e.g., Tab 1) 2. chart 3. list 
議員 : [ぎいん]
 【名詞】 1. member of the Diet, congress or parliament 
: [いん]
  1. (n,n-suf) member 

貴族代表議員 : ウィキペディア日本語版
貴族代表議員[きぞくだいひょうぎいん]
イギリス連合王国における貴族代表もしくは貴族代表議員(きぞくだいひょうぎいん、:''representative peers'')は、スコットランド貴族およびアイルランド貴族から、イギリスの上院である貴族院に参加するために選ばれた人物である。イングランド貴族グレートブリテン貴族連合王国貴族の一員は、貴族院に参加する資格を全員が持っており、参加資格を制限するようなことは行っていなかった。
貴族代表が導入されたのは1707年である。イングランドスコットランドが統一され、グレートブリテン王国ができた。このとき、イングランドの人口はスコットランドの人口よりはるかに多かったが、168人のイングランド貴族に対し、154人のスコットランド貴族が存在した〔Lord Nicholls of Birkenhead. "Opinions of the Committee(委員の意見) " 特権階級の第2回目報告書で委員を選択。2007年4月7日確認。〕。イングランド貴族は、貴族院がスコットランド貴族により支配されることを恐れ、スコットランド貴族の中から少数の代表者を選び、選ばれた人物がスコットランドを代表するように取り決めを行った。1801年アイルランド王国が連合王国に統一されたときも、同様の取り決めが行われた。
スコットランドは、アイルランドが28人を選出している際も、16人のみの選出しか許されていなかった〔May, Erskine. "Present State of the Peerage (1860) (貴族の現在の州、1860年) ". "The Constitutional History of England since the Accession of George III(ジョージ3世の即位からのイングランドの立憲の歴史)", 1896. 2007年4月7日確認。〕。スコットランドで選出されたものは1会期のみの期限で、議会の解散のたびに新たなスコットランドを代表する貴族が選出された、一方、アイルランドの貴族代表は終生その地位を保った。1922年にアイルランドがアイルランド自由国としてイギリスから独立したことにより、アイルランドの貴族からの選出は終わった。1963年に選出の有無にかかわらずスコットランド貴族が議席を得る権利を得て、スコットランド貴族の選出は終わりをつげた。1999年貴族院法により、新たな代表者を選出する手段が導入されたが、一部の世襲貴族が貴族院にとどまることを許し、改革を保留している。
== スコットランド ==

連合法で、スコットランド貴族は17人の代表を選抜する権利を持っていた〔"The Treaty of Union(連合の条約) " スコットランド議会。2007年4月7日確認。〕。各代表は、1つの会期もしくは最大7年の期間役目を果たし、再選は禁止されていた。古い議会が閉会し、新たな議会が開会される際に、国王がスコットランドの貴族をホリールード宮殿に招集し、宣言をだす。選挙が行われる場所は、ヤコブ・デ・ウェット(Jacob de Wet)によって、ファーガス・モア(Fergus Mór)からチャールズ2世までのスコットランドの君主が描かれた89枚のポートレイトで飾られている、大きなギャラリーであった〔"The Palace of Holyroodhouse(ホリールード宮殿) " 王族コレクション。2007年4月7日確認。〕。選挙名簿管理長官(Lord Clerk Register)が貴族の名簿が声高々に読み上げられ、呼ばれたものはそれぞれ返事をする。その後、名簿が再度読まれ、各貴族が自分の投票を公表する。同じ手順が空席が生じた場合にも行われた。
埋めるべき席の数だけの投票を各貴族が行うため、ブロック投票制度が使用された。しかし、このシステムでは、たくさんの貴族を有する政党である保守党が、対立政党がしばしば代表者を持たないまま、不相応な数の席を手に入れることを許した。選挙名簿管理長官は票を数える役割を持っていた。選挙名簿管理長官により出される発表は代表となった貴族を議会に送るための十分な証拠となった。そのため、他の貴族たちと違い、スコットランドの代表は召還状を受け取ることはなかった〔"House of Lords Hansard for 29 Apr 1999 (pt 16)(貴族院議事録1999年4月29日) ". House of Lords Hansard, Volume: 600, Part: 74. 2007年4月7日確認。〕。

スコットランド貴族の貴族院における地位と権利は18世紀中は明確ではなかった。1711年、スコットランド貴族のジェイムス・ダグラスブランドン男爵とイギリス議会で面会する約束をした〔Lundy, Darryl. "Sir James Hamilton, 1st Duke of Hamilton(ジェイムス・ハミルトン、初代ハミルトン男爵) " thePeerage.com. 2007年4月7日確認。〕。彼が貴族院に入場しようとしたとき、彼は入場を拒否され、たとえ彼がイギリス貴族の地位を持ったとしても、彼が代表として選ばれた貴族でない限りは、スコットランド貴族は貴族院に入場することができないとした。彼らは1707年の連合法は16人より多くも少なくもない人数を貴族院に配分すると決めたものを理由にした。しかし、1782年貴族院はこの決定を覆した。王家は、スコットランド貴族であるかは関係なく、単に年齢と市民権の資格さえあれば、貴族院が歓迎するものであれば誰でも入場することを許すことになった。
1963年の貴族法で、スコットランド貴族は貴族院に議席を持つ権利を持ち、これで貴族代表の選挙は終わりを告げた〔"Peerage Act 1963(貴族法 1963年) ". The Committee Office, House of Lords. 2007年4月7日確認。〕。
1999年の貴族院法の通過により、スコットランド貴族は、グレートブリテンやイングランドの世襲貴族と同じく貴族院において自動的に議席を得る権利を失った。貴族院法の法案が議論されている際には、この提案は連合法に違反するものではないかと言う質問があがった〔Lord Slynn Hadley. "Select Committee on Privileges Second Report(貴族特権委員会第2回報告書) ". The Committee Office, House of Lords. 2007年4月7日確認。〕。
法案が連合法の条文に反していると言う意見に対して、この法案は、連合での採決の前に、スコットランド議会がその状況を受け入れ、基本的な点はスコットランドの貴族院と庶民院両方の議員により議決されたものであった。その上、1963年の貴族法は、連合法の22条を考えると、全てのスコットランドの貴族が貴族院に参加することにより、スコットランドの代表者が必要であることを侵害していないことを暗示していた。すなわち、16の最低限の議席がスコットランドに与えられている限り、条項の基本項目は維持されていた〔。さらに、22条の必要性を無効にする唯一の方法はイングランドとスコットランド間の連合を解消することであると議論された。これは、貴族院の意見が要求しているものではなかった。

政府顧問は、異なる見解を持っていた。1963年の貴族法は、明確に貴族代表を選出する項目に関する連合法の部分が無効になったとしており、議会で議論をしている者は誰もその廃止に関して異論を持っていないとしている。第22条は廃止されたもしくは、廃止されたと考えられているため、法案が連合法に違反しているとは文章に記載されなかった。政府は更に、その条文は「確固としたもの」では無かったため、22条は廃止されると主張していた。「確固とした」条文の例はたくさん存在した。例えば、イングランドとスコットランドは「永遠」に連合した〔"The Treaty (act) of the Union of Parliament 1706(連合議会の法律 1706年) " Scottish History Online.。2007年4月7日確認。〕。スコットランドの最高民事裁判所は「それが存在している間スコットランドと共に常に」存在するとしており〔"Union With England Act 1707 (イングランドとの連合の法 1707年) ". Select Committee on Privileges.。2007年4月7日確認。〕、スコットランド教会は、「有効的にかつ永久に保証されて」いた〔"Appendix 3 'Case for Her Majesty's Government'(付録3、英国政府の場合) ". Select Committee on Privileges - Second Report. 2007年4月7日確認。〕。しかし、第22条には、「教会や、存在している間永久に」と言うはっきりとした言葉は含まれていなかった〔MacQueen, Hector L.
"House of Lords reform and the Treaty of Union(上院再編と連合の条約) ". Scots Law News, Edinburgh Law School. 2007年4月7日確認。〕。
政府によって更に指摘されたのは次の点である。たとえ、スコットランドの貴族の選出が確かなものであったとしても、議会は議会主導の考えの下に条文を変更することができる。スコットランド教会の地位が「永久に」保証さられるものであったとしても、1853年の大学法は、教授がその地位を引き受ける前に、誓約を宣言する点を廃止した〔"Union with Scotland Act 1706(スコットランドとの連合法 1706年) ". Select Committee on Privileges - Second Report. 2007年4月7日確認。〕。一方、アイルランドでは、アイルアランドとの連合法の条文が、明確にアイルランド教会の永久性を保証しているが、1869年にアイルランド教会は完全に完全に廃止された〔"Church Temporalities FIN 10/10(教会の世俗所有物 FIN 10/10) ". Public Record Office of Northern Ireland. 2007年4月7日確認。〕。アイルランドとグレートブリテンとの間の連合は「永久」であったが、1922年アイルランドとの連合は解消された〔"Early Irish Law and Brehon law アイルランドの初期の法律とブレホンの法律 ". Courts Service of Ireland. 2007年4月7日確認。〕。したがって、議会は、根底にある原則を変更するのと同様に、もし望むなら連合法の条文を廃止することができると意見している。
貴族特権委員会(Committee for Privileges)は満場一致で、連合法の条文は貴族院の法案が制定されたとしても、それにより破られることは無いとした。法案は
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「貴族代表議員」の詳細全文を読む




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