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角田覚治 : ミニ英和和英辞書
角田覚治[かくた かくじ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [つの]
 【名詞】 1. horn 
: [た]
 【名詞】 1. rice field 

角田覚治 : ウィキペディア日本語版
角田覚治[かくた かくじ]

角田 覚治(かくた かくじ、1890年明治23年)9月23日-1944年昭和19年)8月2日)は、新潟県南蒲原郡出身の海軍軍人。最終階級は海軍中将。テニアン島で戦死。
== 生涯 ==
1890年(明治23年)9月23日新潟県南蒲原郡槻田村字諏訪新田(現・三条市諏訪)で農家の父角田利八と母角田ソメの七人兄弟(兄1人妹2人弟3人)の二男に生まれる。1908年3月旧制三条中学校(現:新潟県立三条高校)卒業。在学中に新潟港遠足に行った折見た海軍士官に憧れて受験し、1908年(明治41年)9月14日海軍兵学校第39期生として入校した。入校時の席次は150人中102番。1911年(明治44年)7月18日148人中45番の成績で卒業。少尉候補生練習艦隊の巡洋艦「阿蘇」乗組、巡洋戦艦「伊吹」乗組。1912年大正元年)12月1日少尉任官、巡洋艦「千代田」乗組。
1913年(大正2年)海軍砲術学校普通科学生。1914年海軍水雷学校普通科学生。12月1日中尉進級、第一艦隊所属戦艦「摂津」乗組み。この頃起こっていた第一次世界大戦が初陣となるが、戦闘は経験せず、黄海方面の哨戒活動、通商保護などの任務にあたった。1915年11月7日「大正3・4年戦役の功に依り勲六等瑞宝章及金二百五十円」を授与される〔松田十刻『角田覚治「見敵必戦」を貫いた闘将』PHP文庫〕。
1916年(大正5年)12月装甲巡洋艦「吾妻」乗組。1917年(大正6年)在職中死去した駐日アメリカ大使ジョージ・W・ガスリーの遺体をアメリカ本国に移送する任務が「吾妻」に下り、6月25日サンフランシスコに入港する。1917年12月大尉進級、海軍大学校乙種学生に進学。1918年(大正7年)4月15日砲術学校高等科学生。12月巡洋戦艦「霧島」分隊長。1919年11月駆逐艦「」乗組み。1920年(大正9年)4月9日旧会津藩の学問師範役の娘の婉子(えんこ)と結婚。婉子の兄が角田と同期でその紹介をきっかけとした恋愛結婚であった。
1920年(大正9年)防護巡洋艦「須磨」砲術長。1921年12月巡洋艦「天龍」砲術長。佐世保鎮守府付。1923年(大正12年)3月1日巡洋艦「夕張」艤装員。5月巡洋艦「夕張」砲術長。1923年12月少佐進級、海軍大学校甲種23期生に進学。1925年(大正14年)11月卒業。12月第一水雷戦隊参謀。1926年巡洋艦「古鷹」砲術長。1927年(昭和2年)第二艦隊参謀。1928年(昭和3年)中佐進級。第一艦隊参謀兼連合艦隊参謀。1929年(昭和4年)第一航空戦隊参謀。
1932年(昭和7年)1月第一次上海事変勃発。12月1日上海海軍特別陸戦隊参謀兼第三艦隊司令部附となり上海駐留。1933年(昭和8年)10月20日横須賀鎮守府付。11月15日大佐昇進。1934年(昭和9年)3月10日軽巡洋艦「木曾」艦長。11月15日重巡洋艦「古鷹」艦長。1935年(昭和10年)11月15日練習艦隊の装甲巡洋艦「磐手」艦長。1936年(昭和11年)12月1日江田島の海軍兵学校教頭兼監事長。1938年3月上旬支那事変から帰還した源田実参謀が海軍兵学校へ呼ばれ、全校生徒の前で中国での航空戦の体験を飛行将兵として語ったが、角田は生徒に飛行機の協力は望ましいがこれに頼るわけにはいかないとくぎを刺した。この頃の角田は航空を二次的なものとして考えていた。〔源田実『海軍航空隊、発進』文春文庫 319-320頁〕源田実は「角田はネルソン的精神の尊敬すべき性格をもった闘将であり、山口多聞大西瀧治郎に匹敵する人であった」と評価する一方、こういった人がもっと早く航空戦力の重要性に気付いて体制を整えてほしかったとも語っている〔源田実『海軍航空隊、発進』文春文庫 319-320頁〕。
1938年(昭和13年)11月15日戦艦「山城」艦長兼戦艦「長門」艦長。12月15日免兼職。1939年(昭和14年)少将に昇進、佐世保鎮守府参謀長。1940年(昭和15年)11月15日第三航空戦隊司令官任命。第三航空戦隊参謀淵田美津雄によれば「角田は砲術出身だったため砲術家通有の保守的で頑固なところはあったが、気性はさっぱりしていた。武将として最も優れた性格と思われるのはその攻撃精神が旺盛なところであった。見敵必戦のその闘志はかつてのコロネル沖海戦での英海軍のクラドック提督を思わせるものがあった。この猛将の性格は時には柔軟な作戦指導を要する航空作戦の性格上、何から何まで全て適役というわけではないけれども、ともすれば慎重に過ぎて、すぐ腰がくだける我が艦船部隊の多くの指揮官に比べて一異彩であった」という〔淵田美津雄・奥宮正武『ミッドウェー』学研M文庫〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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