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藤川友春 : ミニ英和和英辞書
藤川友春[ふじかわ ともはる]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ふじ]
 【名詞】 1. wisteria 
: [かわ]
 【名詞】 1. river 2. stream 
: [とも]
 【名詞】 1. friend 2. companion 3. pal 
: [はる]
  1. (n-adv,n-t) spring 

藤川友春 : ウィキペディア日本語版
藤川友春[ふじかわ ともはる]
藤川 友春(ふじかわ ともはる)は、浪曲名跡
三代目まで続いたが一般的に藤川友春と言えば初代のことを指す。
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藤川 友春(初代)(ふじかわ ともはる、1879年明治12年)2月15日 - 1927年昭和2年)1月2日)は、浪曲師京都府相楽郡棚倉村(現在の京都府木津川市)出身。神戸市にて死去。本名は、冨岡長五郎(父・冨岡重五郎、母・りん)。
16歳で大阪に出て藤川派の藤川友丸の門下に入って修行し、時代ものの名人と謳われた。芸の巧みさ、節調の面白さについては、「円転として楽しく、ころがっていくような友春節は、人の心を浮き浮きせた。関西節の名人だった」と異口同音に絶賛された。22歳の若さで真打昇進。
後続世代の浪曲師・梅中軒鶯童は駆け出しの頃にいろいろな浪花節を聴いてまわり、友春のものは神戸大和座で聴いて印象に残ったという。「友春師は稀世の名人と誰人も認識していた人」と、その自伝『浪曲旅芸人』で書いている。大会の場合など小円(京山小円)のあとへは何者も上がれないと怖れたが、友春が顔を出せばさすがの小円の人気も一瞬に打消したという。軽妙な表現、そして一言にして涙を誘う、真に名人であった。
梅中軒鶯童によれば、藤川友春の芸風は、「巧まざるユウモア、ケレンの無いケレン、写実によって全篇の雰囲気を表現する名人芸であった」。梅中軒鶯童は、藤川友春が引退の直前、大正9年に「難波戦記」を拝聴する機会を得たという。友春の引退大会は大正12年12月26日、神戸新開地の相生座で行われた。墓所は、神戸市兵庫区の鵯越(ひよどりごえ)墓園にある。
口演には次のものがある。
「弁慶新五郎」(速記:吉田松茵、名倉昭文館、大阪、明治44年;1911)。
「柳生十兵衛旅日記」(速記:吉田松茵、博多成象堂、大阪、大正1年;1912)。
他に、吉田松茵編著「各大家競演大阪浪花節大会」[第1、2編の2冊](樋口隆文館、1910年)に、「難波戦記」「鍵屋騒動」が所収。
「大家十八番浪花節講演集」[第1冊、第2冊](浪花節新聞社編著、樋口蜻輝堂、1912年)に、「朝鮮軍記清正の苦心」「侠客小仏重三」「鍵屋騒動」(再録)が所収されている。
「浪花節名演集sp盤復刻、ディスク5枚」(日本コロンビア、2011年)に、「後藤又兵衛」が収録されている。
また、藤川友春の実弟、冨岡冨重郎(通称・うかんむりの富岡)も「親友派組合に属した太夫元で、の旭席を本拠に、桜の席、住吉座など掛持ち席を持って、泉州和歌山方面を地盤にして広く興行をやっている勢力家」であった。富岡興行部の屋号で興行を行ない、家は堺の甲斐町大道、大小路停留場前で、与謝野晶子(旧姓、鳳志よう)の実家の数軒隣にあった。第二次世界大戦後は、道路拡幅で大通りになっている。
弟子に二代目友春、二代目友丸らがいる。
== 参考文献 ==

* 梅中軒鶯童『浪曲旅芸人』(1965年、東京・青蛙房
* 芝清之編『大衆芸能資料集成 第六巻』(1980年、東京・三一書房



抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「藤川友春」の詳細全文を読む




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