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菅楯彦 : ミニ英和和英辞書
菅楯彦[すが たてひこ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [たて]
 【名詞】 1. shield 2. buckler 3. escutcheon 4. pretext

菅楯彦 : ウィキペディア日本語版
菅楯彦[すが たてひこ]
菅 楯彦(すが たてひこ、明治11年(1878年3月4日 - 昭和38年(1963年9月4日〔『「現代物故者事典」総索引 : 昭和元年~平成23年 2 (学術・文芸・芸術篇)』567頁。〕)は、日本画家鳥取県鳥取市出身。本名は藤太郎。号は、初め盛虎、のち静湖、静香。大阪美術会会員。大阪市名誉市民。浪速の風俗を愛し「浪速御民(なにわみたみ)」と標榜、はんなりとした情趣ある浪速風俗画で「最も大阪らしい画家」と呼ばれた。
== 略歴 ==

=== 生い立ち ===
明治11年(1878年)、鳥取市に菅大治郎(画号・盛南)の長男に生まれる。本名は藤太郎。父も日本画家であり、塩川文麟の門下で岸派を折衷したという。生後の翌年姫路で陶器の絵付を指導、ついで赤穂へ転居。、明治14年(1881年)京都へ向かう途に大阪の身内に引き留められ、ここに住むことになる。父に日本画を学んだが、明治23年(1890年)父が卒中で倒れると高等小学校を中退し、12歳にして父に代わって着物の図柄やちょうちん、看板などの絵を描いて生計を助けようとした。しかし、まだ子どもだった藤太郎に注文はほとんどなく、生活は貧窮を極めた。明治30年(1897年)、そのどん底の中で父は死亡した。
父以外に絵の手ほどきを受けたことはなく、父死後は貧窮に悩みながら独学で画業を進め、大和絵をはじめ円山四条派狩野派浮世絵など幅広く研究した。また、歴史に深く関心を寄せ、国学鎌垣春岡に、漢学山本憲に学んだ。一時定職につき、明治32年(1899年)から2年ほど、漢学者・藤田軌達の紹介で神戸新聞社で挿絵画家(月給30円)として働いた〔『神戸新聞社七十年史』 pp.371-372。〕。明治34年(1901年)から2年間、大阪陸軍幼年学校の歴史科画事嘱託となり、歴史と美術を教え、ここで松原三五郎から洋画法を学んでいる。明治35年(1902年)に画号を菅楯彦とした。これは春岡から贈られたもので、出典は『万葉集』巻20の防人が詠んだ歌「今日よりは顧みなくて大君の醜の御楯と出で立つわれは」から取ったと推測される。更に復古やまと絵派の冷泉為恭に関心を持ち、為恭風の「菅」の方印を使い始める。明治36年(1903年)第五回内国勧業博覧会に、「兼好法師之図」を出品するが落選している。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「菅楯彦」の詳細全文を読む




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