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茶阿局 : ミニ英和和英辞書
茶阿局[ちゃあのつぼね]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちゃ]
 【名詞】 1. tea 
: [きょく, つぼね]
 【名詞】 1. court lady 2. lady-in-waiting

茶阿局 : ウィキペディア日本語版
茶阿局[ちゃあのつぼね]
茶阿局(ちゃあのつぼね、? - 元和7年6月12日1621年7月30日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての女性。徳川家康側室松平忠輝松平松千代の母。名は。法名は朝覚院
== 生涯 ==
名はお久。本姓は河村。初めは遠江国金谷村鋳物師〔『柳営婦女伝系』。〕の後妻〔『柳営婦女伝系』。〕〔山田某。このとき先妻との間に2人の息子がいた。〕となり、娘(於八)〔を生む。しかし、茶阿局が美人であることから代官が横恋慕し、夫を闇討ちにするという事件が発生する。お久は3歳になる於八を連れて、謀殺された夫の仇を討ってもらおうと、鷹狩に来ていた家康の一行の前に飛び出して直訴し、代官は処罰されることになった。家康はお久を一目で気に入り、娘と一緒に拉致に近い形で浜松城に連れ帰り、側室として「茶阿局」と呼び、厚く寵愛した。なお、この夫の仇は長谷川八郎右衛門という者がとったとある。〔。
天正20年(1592年)に辰千代(後の松平忠輝)、文禄3年(1594年)に松千代を出産する〔天正20年に辰千代、松千代を双子で生んだという記録もある〕。しかし家康は忠輝を冷遇したとされ、生後間もない弟の松千代に長沢松平家を相続させて深谷藩1万石の藩主とした。ところが慶長4年(1599年)松千代は6歳で早世し、後嗣として兄の辰千代が藩主となった。辰千代は慶長7年(1602年)に元服し忠輝となり、翌慶長8年に深谷は廃藩とされ信濃国川中島14万石を与えられた。その際、茶阿局は前亡夫の二人の息子(善八郎〔、又八郎〔)を、先の長谷川八郎右衛門の一族であった木全刑部の養子にして忠輝の小姓として召し出し〔工藤章興『秘 独眼龍軍記 1: 決断』歴史群像新書、学研、2005年。〕、娘婿となっていた花井吉成を忠輝の家老にした。彼らは後に松平清直山田勝重など、古参の家臣との対立を招いた。
茶阿局は聡明であったため、奥向きのことを任され、強い発言力と政治力を持っていたようである。故郷の金谷村には、周辺の寺を保護して寺同士の紛争の解決にも尽力し、弟が住職だったとされる能満寺の寺領のため奔走したとする慶長9年(1604年)の記録が残る(『能満寺寄進状〔吉田町HP、能満寺の古文書 〕』)。
慶長11年(1606年)、忠輝は伊達政宗の長女五郎八姫正室として娶る。その後、順調に加増を重ね、越後国高田75万石を所領した。元和2年(1616年)、家康死去後は髪を下ろし朝覚院と号した。しかし、直後に忠輝は兄の秀忠により度重なる失態を責められ改易伊勢国に流罪になった。茶阿局は家康の側室の阿茶局に取り成しを依頼し奔走したが、聞き入れられることはなかった。
茶阿局は元和7年(1621年)6月に病死した。法名は「朝覚院殿貞誉宗慶定禅尼」〔文京区教育委員会「茶阿局墓碑」説明板。〕。墓碑は、これに因む寺名を持つ宗慶寺東京都文京区小石川)にある。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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