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若松勉 : ミニ英和和英辞書
若松勉[わかまつ つとむ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

若松 : [わかまつ]
 【名詞】 1. young pine 2. New Year's symbolic pine decoration 
: [まつ]
 【名詞】 1. (1) pine tree 2. (2) highest (of a three-tier ranking system) 

若松勉 : ウィキペディア日本語版
若松勉[わかまつ つとむ]

若松 勉(わかまつ つとむ、1947年4月17日 - )は、北海道留萌市出身の元プロ野球選手外野手)・野球指導者・監督野球解説者野球評論家
現役時代はヤクルトアトムズ・スワローズで長きにわたって活躍し、引退後はヤクルトで打撃コーチ・二軍監督・監督を務めた「ミスタースワローズ」。また、小柄な体格ながら巧みなバッティングを披露し、数々の記録を打ち立てた事から「小さな大打者」の異名を持つ。
年間打率3割12回は川上哲治と並んで歴代3位。
== 経歴 ==

=== プロ入り前 ===
北海高校では2年生から二塁手のレギュラー。チームは1964年夏の甲子園に進出するが〔「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年〕、若松は病気欠場を余儀なくされる。しかし翌1965年夏の甲子園には、背番号14ながら三番打者、右翼手として出場。1回戦で佐賀商に敗退する〔がこの試合で4盗塁を決め、その俊足が注目される。卒業後は電電北海道に進む。北海道拓殖銀行大昭和製紙北海道など強豪が多く、チーム自体は都市対抗に出場できなかったが、補強選手として1967年から4年連続都市対抗に出場。1967年の大会では拓銀に補強され、2回戦で本塁打を放つなど中心打者として活躍、拓銀の準々決勝進出に貢献した〔「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年〕。
本人も周囲もあまりプロを目指すことは考えておらず、プロ入りには消極的だった。しかし、当時ヤクルトでヘッド兼打撃コーチを務めていた中西太と、ヤクルトの監督であり中西の義理の父でもあった三原脩が若松の素質に目を付け、プロ入りを嫌って家を空けて逃げ回る若松のもとにはスカウトが7度も訪れた。最後には中西までもがスカウトと共に足を運び、プロ入りに反対していた若松夫人と共に口説き落とす事に成功した。また、指名の第一報は電話で球団のスカウトから伝えられたが、その声が所属チームの監督そっくりだったらしく、若松は「監督、何を冗談言ってるのですか」と信じなかったという(本人は社会人入りして5年経過しても声が掛からなかったこともあって、プロ入りはないと決め込んでいた)〔。
公称168cm(自称166cmだった)という小柄な体型のため、プロ入り時はプロ選手としてやっていく自信がなかった。夫人に「ダメだったら北海道に帰って二人で焼き鳥屋でもやろう」と言って入団を決意した〔 ただし、ベースボールマガジン1981年3月号のインタビューでは、「お茶漬け屋でも開こうかと思った」という旨の発言をしている。またラーメン屋という説もあり、真偽は不明である。〕。若松は北海道から東京に夫人と共に上京することになり、入団発表でも夫人を同伴している。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「若松勉」の詳細全文を読む




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