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芹沢博文 : ミニ英和和英辞書
芹沢博文[せりざわ ひろぶみ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [せり]
 【名詞】 1. dropwort 2. Japanese parsley
: [さわ]
 【名詞】 1. (1) swamp 2. marsh 3. (2) mountain stream 4. valley 5. dale 
: [ばく, ひろ]
  1. (n,n-suf,vs) doctor 2. Ph.D. 3. exposition 4. fair 5. exhibition 6. commanding esteem 7. winning acclaim 8. gaining 9. receiving 10. command esteem 1 1. win acclaim 12. gain 13. receive
: [ぶん]
 【名詞】 1. sentence 

芹沢博文 : ウィキペディア日本語版
芹沢博文[せりざわ ひろぶみ]
芹沢 博文(せりざわ ひろぶみ、1936年10月23日 - 1987年12月9日)は、将棋棋士。棋士番号68。旧字体芹澤 博文表記も使われている。
静岡県沼津市出身。高柳敏夫名誉九段門下。タレントとしても活動した(盤外での活動を参照)。
== 来歴・人物 ==

*将棋を覚えたのは、小学校4年生の頃だった。しかし、その2年後には、沼津の将棋大会に訪れた木村義雄十四世名人と二枚落ちで指し快勝しており、神童と騒がれる。
*14歳の時に入門。19歳で四段となる。1年目の順位戦こそ惜しくも昇級を逃すが、2年目からは4年続けて昇級し、24歳でA級八段となる。ちなみに、C級2組から4年続けて昇級を果たしたのは、芹沢の他に加藤一二三中原誠谷川浩司の名人経験者3名に、田中寅彦の計4名しかいない。このようなことから、芹沢は『若き天才』『俊英』と呼ばれた。
*奨励会の頃から傲岸不遜な言動で知られ、当時の常務理事に対して「奨励会の昇級規定は生ぬるい。こんな規定で昇級しても恥ずかしいだけだから、自分は(昇級を)辞退する」と啖呵を切ったり、B級1組当時、「今の自分なら十番指して二番負けることはない。(A級に)上がるには9勝3敗でいいのだから、二番は不戦敗でいい」などと発言。物議を醸すが、当時から表裏がなく、一本筋の通った性格だったこともあり、先輩らからは可愛がられた。
*一方で、若手の面倒見も良かった。弟弟子でもあった中原誠は、奨励会時代に毎週日曜日になると芹沢の家を訪ね、稽古を付けて貰っていた。中原が強くなったのも、筋の良い芹沢の将棋を吸収したからだ、と言われている。
*また、一門は違ったものの、米長邦雄も奨励会時代から芹沢に可愛がられていた。低段時代の米長は、振り飛車を多く指していたが、芹沢の『若い内から振り飛車を指していては大成しない』という忠告を受け、振り飛車を封印した。その後の米長は、居飛車の本格派として急成長を果たす。なお、芹沢の葬儀の弔辞は、米長が担当している。
*B級1組では、上記の発言の通り11勝1敗という好成績でA級に昇級したが、その後は星が思うように伸びず、わずか2年でA級から陥落した。本人曰く「その気になればいつでも勝てると思っていたから、その気にならず負ける癖がついてしまった」という。以後、B級1組を長らく維持する。
*その中でも何度かA級復帰のチャンスはあったが、1969年度のB1順位戦では最終局、中原との直接対決で終盤まで優位に進めながらも逆転負けし、A級復帰を逃す(中原はこの年10勝3敗でA級に昇級)。
*名人位に対する思いは強く、名人になる見込みがなくなって以後も、折にふれ「俺は名人になれないのか」という考えが浮かんで、涙を流していた。
*30代以降、棋士として目立った成績は残していないが、運営面やタレント、文筆活動などで才覚を発揮する(後述)。
*無類の酒好きで知られたが、晩年は酒量が増え、対局もままならないことが少なからずあったという。そんな中、将来の名人候補と目された谷川浩司との1981年度のB1順位戦での対局は、酒断ちをして体調を整え谷川と対峙し、完璧な指し回しで見事谷川を破った(谷川はこの年10勝2敗でA級に昇級)。
*また、谷川浩司の棋才と人物を早くから認めて「将来の名人」と断言し、「谷川の応援団長」と自称していた。
*一方、芹沢の死去の2年前にデビューして活躍していた羽生善治については、その「筋にこだわらない」棋風を嫌い評価しなかった。羽生と同世代の若手棋士で芹沢が評価していたのは、「筋に明るい」将棋を指していた阿部隆であった。
*1987年12月9日、逝去。。死因は肝不全であった。直前までバラエティ番組にも出演しており、突然の訃報という印象もあったが、死の数年前にも倒れて病院にかつぎこまれた経験を持つ。その際、テレビ番組で共演していたせんだみつおに良医を紹介され、「せんださんのお陰で助かりました」と感謝の意を表している。
*若き日には自らを将棋の天才と信じていたが、あるとき才能の限界を自覚し(中原は自分が届かない場所に行き、米長にも抜き去られたと感じ「前に2頭いれば連対できない」と競馬の勝負に例えて言った)、それ以来酒におぼれるような生き方になった。晩年になると、朝からシャブリを食事なしに飲み続けた。尋常ではない酒量で体調を崩した結果の早逝であり、その死は「時間をかけた、ゆるやかな自殺」とも喩えられた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「芹沢博文」の詳細全文を読む




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