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芸研プロダクション : ミニ英和和英辞書
芸研プロダクション[げいけんぷろだくしょん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [げい]
 【名詞】 1. art 2. accomplishment 3. performance 

芸研プロダクション : ウィキペディア日本語版
芸研プロダクション[げいけんぷろだくしょん]

芸研プロダクション(げいけんプロダクション)は、かつて存在した日本の映画製作会社である。時期により、第1期と第2期に大別される〔熊谷久虎 アテネフランセ文化センター、2012年4月20日閲覧。〕。「芸研」とは映画芸術研究所(えいがげいじゅつけんきゅうじょ)の略であり、製作会社として後者で表記されることもあるが、通常は「芸研プロダクション」と表記される〔講演「佐分利信を再見する 第3回アナクロニズムの会」 木全公彦、2009年10月10日、アテネフランセ文化センター、2012年4月20日閲覧。〕。登記上の正式名称は藝研株式会社(げいけん-)である。
== 略歴・概要 ==
1949年(昭和24年)に設立、熊谷久虎を代表に、俳優ブローカーの星野和平、映画監督の倉田文人森永健次郎、俳優の佐分利信らが取締役に就任した〔〔殿様ホテル キネマ旬報映画データベース、2012年4月20日閲覧。〕。設立第1作は、倉田が監督、河津清三郎が主演した『殿様ホテル』で、前年10年に東宝争議が終結し、製作を再開した東宝撮影所(現在の東宝スタジオ)を使用して製作、芸研プロダクションが東宝と共同で配給した〔〔殿様ホテル 日本映画データベース、2012年4月20日閲覧。〕。本作で、原節子の兄会田吉男が単独で撮影技師に抜擢されている〔〔会田吉男 、キネマ旬報映画データベース、2012年4月20日閲覧。〕。その正式な「設立第1作」に先行し、ニュース映画的な短篇ドキュメンタリー映画スター家庭訪問記』を製作、同年1月10日に東京映画配給(現在の東映)が配給して公開している〔スター家庭訪問記 日本映画製作者連盟、2012年4月20日閲覧。〕
1950年(昭和25年)には、太泉映画(現在の東映、および東映東京撮影所)との提携製作を行い、佐分利信を『女性対男性』で映画監督としてデビューさせる〔〔女性対男性 、キネマ旬報映画データベース、2012年4月20日閲覧。〕。同年、星野がマネジメントしていた原節子を主演に、太泉映画と提携して『アルプス物語 野性』を製作、いずれも東京映画配給が配給した〔野性 、キネマ旬報映画データベース、2012年4月20日閲覧。〕。
翌1951年(昭和26年)3月末に太泉映画が合併して東京映画配給が東映になったのを機に、いちど芸研は閉じられ、星野は東京プロダクションを設立している〔。1952年(昭和27年)には、星野は東京プロダクションも解散し、1954年(昭和29年)に日活の契約プロデューサー、1955年(昭和30年)には、新東宝に入社、取締役撮影所長に就任している〔。同年、芸研プロダクションの第2期とされる時期が始まり、熊谷久虎が製作、倉田文人が監督した『ノンちゃん雲に乗る』を製作、星野がいる新東宝が配給して、同年6月7日に公開されている〔。
1957年(昭和32年)の資料によれば、同年の芸研の代表は、『ノンちゃん雲に乗る』『柿の木のある家』『検事とその妹』に「製作」あるいは「企画」としてクレジットされている中田博二である〔『映画年鑑 1957』、p.750.〕。1961年(昭和36年)の『官報』によれば、中田は同年3月7日に破産宣告を受けており、これをもって芸研は活動を終えたと見られる〔『官報』、大蔵省、1961年、p.414.〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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