翻訳と辞書
Words near each other
・ 織田浩司
・ 織田淳哉
・ 織田淳太郎
・ 織田淳広
・ 織田淳廣
・ 織田清七
・ 織田源五
・ 織田源五郎
・ 織田無道
・ 織田犬
織田瑟瑟
・ 織田町
・ 織田真子
・ 織田秀一
・ 織田秀俊
・ 織田秀信
・ 織田秀則
・ 織田秀和
・ 織田秀子
・ 織田秀孝


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

織田瑟瑟 : ミニ英和和英辞書
織田瑟瑟[おだ しつしつ]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [おり]
 【名詞】 1. weave 2. weaving 3. woven item
: [た]
 【名詞】 1. rice field 

織田瑟瑟 : ウィキペディア日本語版
織田瑟瑟[おだ しつしつ]
織田 瑟瑟(おだ しつしつ、安永8年(1779年) - 天保3年7月9日1832年8月4日〔西蓮寺墓碑銘(横谷(1985))。〕)は、江戸時代後期の女流絵師。本姓は津田政江を題材にした絵画を得意とした。
== 生涯 ==
安永8年(1779年)、近江国神崎郡(現在の滋賀県東近江市)川合寺で〔『近江人物誌』大正7年。〕、知行700石を領する〔『近江人物誌』には「一千石」と記され、こちらを取る資料もあるが、『寛政重修諸家譜』第八(続群書類従完成会、1965年)によると、千石を知行したのは初代信貞の代で、3代長沼はそこから300石を弟に分知したため、以後は700石の知行になっている(横谷(1985))。〕津田内匠貞秀の長女として誕生。名は政江〔。
津田家は織田信長の九男織田信貞を遠祖とし、豊臣秀吉より神崎郡内御園荘に領国を賜り川合寺に館を築いた〔石丸(1980)〕。信貞は関ヶ原の戦いおいて東軍に属し、以後は徳川家康に仕え旗本となった。代々江戸に住んでいたが信貞の次男で高家旗本であった織田貞置の孫・織田長経(貞秀の父)が領国川合寺に隠棲し津田姓を称したことから川合寺津田家は始まる。
幼い頃から絵を描くことに優れていたと伝えられている〔近江の先覚〕。父・貞秀に男子がなかったことから、政江が10代前半の時、縫殿助岐山なる風流人を婿に迎える。瑟瑟は京都に移り住み、やがて娘が生まれるが寛政6年(1794年)に娘は夭逝する。その後、京都鳴滝の女流画家で桜花の写生を得意とした三熊露香に入門し、本格的に絵を学ぶ。三熊露香への入門は瑟瑟自身が桜を描くことが好きであったことによる。画名を「瑟瑟」とし、これは風の吹く様、或いは深緑色を意味する。早くも寛政8年(1796年)と翌9年(1797年)京都の「東山新書画展」に夫と共に出品している(同目録)。ところが夫も寛政9年に死別する〔横谷(1985)。〕。
文化7年(1810年)の『近世逸人画史』には「平安人」と記載され京に住んでいたようだが、その後川合寺の本家に戻り、11歳年上の彦根藩士石居家の三男〔・信章を瑟瑟の婿養子津田信章として迎え入れた〔。しかし、文化10年(1813年)瑟瑟が35歳の時に夫・信章は病死し〔、その後は再婚せず、子の貞逸の教育に徹する。貞逸成人後の50歳前後で剃髪、妹の八千代と共に隠棲した。なお、八千代も絵を良くしたという〔『古画備考』収録の「(朝岡興禎宛か)江州八幡森氏書簡」。八千代の墓も西蓮寺にあり、その墓碑銘により瑟瑟より4歳年下で、瑟瑟他界から2年後に亡くなっている事がわかる。言い伝えでは、八千代も萩を描いた遺作があるというが、確認されていない(横谷(1985))。〕。また、瑟瑟に弟子がいたという所伝はないが、守山輝子という絵師が瑟瑟に類似した桜図を描いている作例があり、瑟瑟の弟子だと考えられる〔『江戸の閨秀画家』(板橋区立美術館、1991年)p.13、96。〕。
天保3年(1832年)に54歳で死去。墓は川合寺にある津田家の菩提寺・西蓮寺にあり、法名は専浄院殿天誉快楽名桜大姉〔〔。なお、墓は自分が写生し、寺に移植した桜の下に設けるよう遺言したが、現在はその桜はない〔〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「織田瑟瑟」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.