翻訳と辞書
Words near each other
・ 細川長平
・ 細川隆一
・ 細川隆一郎
・ 細川隆元
・ 細川隆司
・ 細川隆弘
・ 細川隆是
・ 細川隆英
・ 細川雄太郎
・ 細川雅巳
細川韶邦
・ 細川頼久
・ 細川頼之
・ 細川頼元
・ 細川頼基
・ 細川頼春
・ 細川頼有
・ 細川頼直
・ 細川頼種
・ 細川頼範


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

細川韶邦 : ミニ英和和英辞書
細川韶邦[ほう, くに]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [かわ]
 【名詞】 1. river 2. stream 
: [ほう, くに]
 (n) country

細川韶邦 : ウィキペディア日本語版
細川韶邦[ほう, くに]

細川 韶邦(ほそかわ よしくに、天保6年6月28日1835年7月23日)- 明治9年(1876年10月23日)は、幕末大名肥後国熊本藩の第11代藩主。熊本藩細川家12代。
第10代藩主・細川斉護の次男。母は比企氏。兄に細川慶前、弟に細川護久津軽承昭長岡護美。正室は一条忠香の養女(三条実万の娘)。官位は正四位、越中守、左中将。幼名は訓三郎、六之助。初め父・斉護の偏諱を取って護順(もりゆき)、のち藩主就任時に兄・慶前と同じく第12代将軍・徳川家慶から偏諱を授与されて慶順(よしゆき)と名乗る。
== 生涯 ==
嘉永元年(1848年)に兄の慶前が早世したため、父・斉護の嫡子となる。万延元年(1860年)7月12日、斉護の死去により家督を相続する。同年8月21日、左少将に任官する。元治元年(1864年)4月11日、従四位上に昇進する。同年4月15日、左中将に任官する。
尊皇攘夷には消極的な人物で、文久2年(1862年)に肥後勤王党が分裂したのを契機として、藩論を尊王論に統一した。慶応2年(1866年)、長州藩高杉晋作小倉藩を攻撃したとき、小倉藩側に与して戦ったが、隣国の薩摩藩などの動向が気にかかることもあって、わずかに戦って敗れた後、即座に撤退している。
慶応4年(1868年)4月23日、新政府側に与する意思を示すため、実名を慶順から韶邦に改めた。前述の通り、「慶順」の「慶」の字は第12代将軍・徳川家慶から偏諱を受けたものであり、それを返上したのである。
明治2年6月17日、版籍奉還にともない熊本藩知事となった。明治3年(1870年)5月8日、隠居し、弟で養子の護久に家督を譲った。同年5月13日、正四位に昇進する。明治9年(1876年)10月23日、42歳で死去した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「細川韶邦」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.