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米原長者 : ミニ英和和英辞書
米原長者[よなばるちょうじゃ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [こめ]
 【名詞】 1. uncooked rice 
: [はら, もと]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation
: [おさ]
 【名詞】 1. chief 2. head 
長者 : [ちょうじゃ]
 【名詞】 1. millionaire 
: [もの]
 【名詞】 1. person 

米原長者 : ウィキペディア日本語版
米原長者[よなばるちょうじゃ]
米原長者(よなばるちょうじゃ)は、熊本県菊池市山鹿市地方に伝わる民話伝説)およびその主人公である長者の名〔堤 (2007)、pp.24-25、第10話 米原長者伝説〕。
== 物語 ==
米原長者は、日本の伝説としては珍しい独立した三部で構成されている〔。
;前編
:都のある高貴な(公卿の〔『熊本県郷土物語』(荒木ら (1983)、p.143)〕)君は、夢枕に現れた長谷観音様(または清水寺の観音〔『熊本県郷土物語』(荒木ら (1983)、p.143)〕、泊瀬の観音〔『管内実態調査書』城北編(荒木ら (1983)、p.143)〕)から菊池郡の四丁分村(現在の菊池市出田周辺)に住む男へ嫁ぐようお告げを受けた。男の名は小三郎(異説では孫三郎〔『管内実態調査書』城北編、『肥後の伝説』(荒木ら (1983)、pp.143-144)〕)といい、薦編み(異説では籠編み、炭焼き)の貧しい生活を送っていたが、信心深い姫は観音様の言葉に従って十余名の下女を連れて〔『管内実態調査書』城北編(荒木ら (1983)、p.143)〕肥後に下り、一緒に住むようになった。ある日、姫は小三郎に買い物を頼み二両を渡したが、道中で小三郎は(異説では〔『菊池市の伝説民話俚謡』(荒木ら (1983)、p.144)〕)に投げつけ失ってしまった。姫が呆れると、小三郎は「そのようなものは家(異説では炭焼小屋)の裏に沢山ある」と言った。二人が向かいそこを掘ると、夥しい黄金が見つかった。夫妻は大金持ちになり、旭志(菊池市旭志)の岩本村、さらに後には米原(菊池市米原)で数百を手に入れた。こうして小三郎は米原長者と呼ばれるようになった。〔
:『肥後昔話集』では人物が異なり、菊池の城北に住む穂掛孫六が主人公である。落穂を拾ってその日を暮らす貧乏な彼のところへ京都から供を連れた美しい姫が訪ね、嫁になりに来たと言った。年頃になっても良縁に恵まれず観音様に願掛けしたところ夢でお告げを受けたという。山奥の掘っ立て小屋に住む孫六は妻を養う収入も無く断るが、姫は持参金があるからと述べ、食べ物を買うよう金三枚を渡した。しかし山鹿に出た孫六は川の鴨を得ようと投げて失った。帰宅し、姫から手ぶらを咎められると孫六は同じものが炭焼き小屋の横に幾らでもあると言い、二人はたくさんの金の石を手に入れて金持ちになった。姫は観音様へ感謝した。これが米原長者の若き頃の話という〔荒木ら (1983)、pp.140-149、米原長者〕。『菊池市の伝説民話俚謡』では、貧しくも働き者の若者のところに、夢のお告げを受けた姫が京から嫁ぎ、彼女が持参した千両の金を元手に長者となったという〔荒木ら (1983)、p.144〕。
;中編
:目立つ事を好んだ米原長者は、大田畑を所有する富豪だった。その頃、山本郡(熊本市植木町周辺)にも権勢を誇る駄の原(だのはる)長者と呼ばれる人物がいた。ある時、米原長者が提案して二人は宝比べをすることになった。米原から郷原坂口までの道の両脇に、米原長者は金銀・千両箱などを並べ(異説では3の距離に黄金の踏み石を敷き〔熊本県の歴史 (1997)、pp.78-79、米原長者と駄の原長者〕、千両箱13個と米俵1000俵を積み上げ)た。そこへ駄の原長者の宝が到着した。それは美しく正装した子息24人と子女15人(異説では男子24人〔『肥後国誌』巻之六など(荒木ら (1983)、pp.155-156)〕、子女12人〔『石人』第二号(荒木ら (1983)、p.155)〕、子女10人〔『管内実態調査書』城北編(荒木ら (1983)、pp.155-156)〕、一人娘〔『泗水町誌』(荒木ら (1983)、p.156)〕、男女各6人など)だった〔山鹿市鹿央に伝わる話では、米原長者の12の黄金と、駄の原長者の12人の娘がそれぞれ並べられたという(熊本県の歴史 (1997)、p.79)。〕。民衆は駄の原長者の子供たちを見物に集まり、路傍の宝物に関心を寄せる者はわずかだった。男児に恵まれない米原長者は負けを認め「うらやましい」とため息を漏らした。この言葉が浦山(浦山口〔『山鹿郡誌』(熊本県の歴史 (1997)、pp.78-79)〕)またはうらやま坂(山鹿市立米野岳中学校前の古道)〔という地名の由来となった。〔〔荒木ら (1983)、pp.154-156、長者の宝比べ
;後編
:用明天皇(在位585年 - 587年)の頃に朝廷から「長者」の称号を賜った米原長者は、奴婢や牛馬3000以上(異説では牛馬1000、または奴婢600と牛馬400〔『鹿本郡誌』(荒木ら (1983)、p.154)〕)を抱える大富豪だった。彼はこれらの労働力で、5000町歩(3000町歩とも〔)もの広大な水田に毎年1日で田植えを済ませることを自慢にしていた〔。ある年の事、作業が進まずに日没を迎えてしまった。すると米原長者は金の扇を取り出して振るい、太陽を呼び戻して田植えを続けさせた。だが再び陽が沈んでも終わらなかったため、山鹿郡の日岡山で3000(異説では300)のを燃やし、明かりを確保して田植えを終わらせた。この時、にわかに天(山頂とも)から火の輪(玉とも)が降り注ぎ、屋敷に包まれ、米原長者は蓄米や〔財宝など一切を一日にして失った。これは太陽を逆行させた天罰で、この影響から日岡山は草木が生えない不毛な地になり、名称も「火の岡山」が転じてつけられたという。〔〔荒木ら (1983)、pp.150-153、日招き長者

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「米原長者」の詳細全文を読む




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