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第三次ポエニ戦争 : ミニ英和和英辞書
第三次ポエニ戦争[だいさんじぽえにせんそう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [だい]
 (n,pref) ordinal
第三 : [だいさん]
 (n) the third
第三次 : [だいさんじ]
 【名詞】 1. the third .. 2. tertiary
: [み]
  1. (num) three 
三次 : [さんじ, みよし]
 【名詞】 1. three times 2. cubic 
: [つぎ]
  1. (n,adj-no) (1) next 2. following 3. subsequent 4. (2) stage 5. station 
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 
戦争 : [せんそう]
  1. (n,vs) war 

第三次ポエニ戦争 : ウィキペディア日本語版
第三次ポエニ戦争[だいさんじぽえにせんそう]

第三次ポエニ戦争(だいさんじポエニせんそう、紀元前149年 - 紀元前146年)は、かつてフェニキア人の植民地だったカルタゴ共和政ローマとの間で争われたポエニ戦争の3回目にあたり、最後となった戦争である。「ポエニ」という名称は、ローマ人によるフェニキア人の呼び名から名付けられた。
戦争はカルタゴ市に対する3年間の攻囲戦であり、これによってカルタゴの町は完全に破壊され、残されたカルタゴの全領土はローマに併合され、戦争の際に都市に残っていたカルタゴの全住民は戦死(飢死含む)か奴隷となった。第三次ポエニ戦争により、国家としてのカルタゴは滅亡した。
== 背景 ==
第二次ポエニ戦争の終わりから第三次ポエニ戦争に至るまでの間、ローマは、ギリシャから、ヘレニズム諸国の侵攻に対抗する援軍を要請され、当初最低限の援軍で勝利していたが、次第にこの戦争に深入りする事になった(マケドニア戦争イリュリア戦争アンティオコス3世を参照)。また、西に向かってはイベリア半島に遠征し、半島の住民が第二次ポエニ戦争の勝利に大きく貢献した部族も含めて、課税無きローマ同盟に組み入れた(第一次ケルティベリア戦争ヌマンティア戦争ルシタニア戦争)。
20年間に渡る第二次ポエニ戦争においてローマ本土を破滅的状況に追い込んだカルタゴであったが、ローマから提示された停戦条件は寛容なものであった。内容としては海外領土(シチリア島サルデーニャ島ヒスパニア)を(いずれも、すでに敗戦により実効支配を失っている)ローマに引き渡し、毎年200タレント銀貨の賠償金(カルタゴ農業生産の1年分未満)を50年間にわたって支払う事、軍事行動の自主決定権を持たないという責務を負うものに過ぎなかった。
第二次ポエニ戦争でローマは20年近く戦場になり、数十万人の犠牲を出していたことと、イタリアと異なりギリシャでの、従来の主権国家同士の同盟政策が、ギリシャ人の侮りを買い、全く裏目に出ている事などで、ローマ人の中に、強硬派が増え始めていた。彼らの警戒心はカルタゴにも向けられた。カルタゴは貿易によって経済的繁栄をかなり取り返しており、そのためにローマ人はギリシャで戦役が無益に長引く現状への嫌悪もあり、全ての禍根をローマの力で絶つこと、そのためには、復興したカルタゴも滅ぼすべきだと言う民意が芽生えていた。特に主戦派のマルクス・カトーは元老院でどんな演説をしても、「ところで、カルタゴは滅ぼされなければならない (Carthago delenda est) 」の言葉で締めくくった。カトーは、当時ローマ最大の英雄でかつ、下記の伝統外交派である大スキピオの政治生命を絶った。
スキピオの失脚後も、元老院においてはローマの伝統的外交手法である、ローマを主、同盟国を従とした覇権(課税無き、戦争にのみ参加する義務を負う同盟)を目論んでいた非戦派も存在し、その代表者スキピオ・ナシカ・コルクルムはカトーに対抗し自身の演説を「カルタゴは存続されねばならない」で締めくくった。
しかしながら、紀元前192年ローマ・シリア戦争は、対カルタゴ非戦派をも失望させるものとなった。この戦争においてカルタゴは兵糧の提供を、ヌミディアは兵糧に加えて兵力の提供を申し出たのだが、ローマは兵糧の提供は断って有償で買い上げる一方、ヌミディアの兵力提供は有り難く受け取った。当時のローマの価値観では兵糧は自前で用意すべきものであったが、兵力は同盟国から供与を受けるものであったからである。そのためローマは、カルタゴを非協力的な国と看做す一方で、ヌミディアを信頼できる同盟国と考えるようになった。
当時ローマは、先進国であったギリシャ文明に敬意と憧れを強く抱いていた。大スキピオもそうであったように、大多数のローマ市民は、この伝統派であり、ギリシャに傾倒して子弟にギリシャ式の教育を施すほどであった。同時に、そのギリシャが、優れた行政能力とシステムを持ちつつあったローマを、よりにもよってそのローマの援軍に助けられながら蛮族扱することや、衰退に甘んじ、紛争や外向的失策を繰り返しては、そのたびにローマの援軍を利用する事などに幻滅しつつあった。特に、カトーはローマ至上主義者であった。
ローマによる新秩序を求める強攻策か、従来通りの伝統策か、ローマは、自ら兵士としても、対外関係の影響を受ける市民達によって、激しく二分されつつあった。
第二次ポエニ戦争の最後に締結された講和条約により、カルタゴの境界に関する争いは全てローマ元老院の調停に任せることとされ、カルタゴが市民を武装させたり傭兵を雇ったりする前にはローマの承認が必要とされていた。その結果、第二次と第三次の戦争を隔てる50年間、カルタゴはローマの同盟国ヌミディアと境界紛争が起こるたびにローマ元老院の仲裁を仰いだが、上述のローマ・シリア戦争の経緯もあり、下される裁定は常にヌミディアに一方的に有利なものだった。
この時、カルタゴは、自国の以前の姿との落差に、適応出来ておらず、かといって、それを跳ね返すだけの長期的準備も、不十分だった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「第三次ポエニ戦争」の詳細全文を読む




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