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第一次バルカン戦争 : ミニ英和和英辞書
第一次バルカン戦争[だいいちじばるかんせんそう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [だい]
 (n,pref) ordinal
第一 : [だいいち]
  1. (adv,n) first 2. foremost 3. # 1 
第一次 : [だいいちじ]
 【名詞】 1. the first .. 2. primary
: [いち]
  1. (num) one 
一次 : [いちじ]
  1. (adj-na,n) first 2. primary 3. linear (equation) 4. first-order
: [つぎ]
  1. (n,adj-no) (1) next 2. following 3. subsequent 4. (2) stage 5. station 
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 
戦争 : [せんそう]
  1. (n,vs) war 

第一次バルカン戦争 : ウィキペディア日本語版
第一次バルカン戦争[だいいちじばるかんせんそう]

第一次バルカン戦争(だいいちじバルカンせんそう)は、1912年10月から1913年5月まで行われ、オスマン帝国に対するバルカン同盟セルビアモンテネグロギリシャブルガリア)の戦争である。バルカン連合軍は兵員数で劣勢で戦略的にも劣勢なオスマン軍に勝利し、迅速な成功を成し遂げた。戦争の結果、欧州に残るオスマン帝国の領地は殆ど連合軍の手中に収められた。続いてアルバニアの独立にも結び付いた。成功にもかかわらずブルガリアは和平とオスマンの脅威が去ったことで不満を持ち、まもなく第二次バルカン戦争を始め、今度は第一次バルカン戦争の連合軍と闘うことになった。
== 背景 ==

19世紀の列強による干渉を幾分和らげたオスマン帝国支配下のルメリア(所謂東ルメリ自治州)、トラキアマケドニアに対する対立関係を巡るバルカン諸国の緊張関係では、この地域のキリスト教多数派の更に完璧な保護と現状維持の双方を守ろうとしていた。1867年までにギリシャセルビアモンテネグロが全て独立を守っていて、10年後にベルリン条約で確認された。しかしオスマン帝国の支配が存続可能かという問題は、停止されたオスマン帝国憲法スルターンに復活させた1908年7月の青年トルコ革命で復活し、1909年-1911年に重大な発展を遂げた。
セルビアのボスニア・ヘルツェゴビナに対する野心は、1908年10月にオーストリアがこの地域を併呑することで妨害された。セルビアはこの時南方に拡張することに注意を向けていた。この併呑後に青年トルコ党はボスニアのムスリムをオスマン帝国に入植させようとした。この入植はオスマン帝国当局によりムスリムが少ない北マケドニアのこの地域で行われた。この実験は悲惨な結果を齎した。入植ができるこうした人口要素は、主として無知で、手に負えず、熱狂的で、経済的には無価値なものとみなされた。コソヴォと北マケドニアにおける立場は、1912年春以前からの一連のアルバニア騒動でアルバニアのムスリムと容易に結び付いたために帝国にとっては破滅であることを証明した。このイスラーム革命党員は殆どはアルバニアに出自のある人々に対する作戦を行うオスマン帝国軍の一部と結び付いた。1912年5月にオスマン帝国をスコピエ (ウスクブ、ユスキュプ)から追い出してからのアルバニア革命党員は、1912年6月にアルバニア人として西バルカン半島の地域をオスマン帝国に承認させるモナスティルに続いた。セルビアにとっては大問題であった。北方への拡張の望みがオーストリアのボスニア併呑で潰えると、拡張の方向性をアルバニアを国家として独立させる方向に向かわせた。セルビアにとってアルバニア国家建設に対する足掻きを意味した。
バルカン同盟創設の過程は、セルビア・ブルガリア間の戦争前に増大した協定がアルバニア騒擾をセルビア・ブルガリア協定を背景に事件の発端(従ってブルガリア戦争)にした騒擾の成功と並行して起こったことを示している。一方でブルガリアは時間に追われた当事者がセルビアであった為にワルダルマケドニアに対する野心に関してはセルビアに痛みを伴う妥協をさせるのに有利な時機を用いた。この協定によりオスマン帝国に勝つことになる戦争ではブルガリアがクリヴァ・パランカ-オフリド線の南のマケドニア全域を手に入れることになった。セルビアが拡張することは、コソヴォを含むこの線の北にいることになり、セルビアがアドリア海に出られるように現在のアルバニアの北半分を含めた西側に向かって沿岸に出られるようにするものであった。セルビアが条約を受け入れるつもりだったなら、アルバニアを買う為にマケドニアを売ったであろう。
ブルガリアには露土戦争で独立を回復してからオスマン帝国に関する長期政策があった。東ルメリ自治州編入に関するクーデターが成功すると、多民族国家オスマン帝国が領有するマケドニアに連合と解放と革命を掲げる組織で民族は関係ないとするIMROの創立を通して間接的な拡張の系統だった筋書きを巧みに調整していた。IMROの修辞法では反排外主義を掲げながら「マケドニア人民」のための解放を広く訴えることとしていた。事実ブルガリアとの統一前の過程が東ルメリア自治州と同様に行える為にブルガリアはトラキア(東西)とマケドニア(エーゲとワルダル)を新たな自治州に編入することを(そこではブルガリア人民は多数派ではない)促進する秘密事項として創立された組織を背景にしていた。当初の成功でセルビアと特にギリシャは、IMROの真の目的を明らかにし、結果的に悪循環に陥ったゲリラ戦は(マケドニア紛争参照)、マケドニア国内の団体を背景にしたブルガリアとギリシャの間に起こり、青年トルコ党が民主化と近代化を掲げてオスマン帝国で権力を握って終わった。ブルガリアはこの時戦争に勝つことで拡張を果たすとする本来の方法に戻り、この目的の為に巨大な軍隊を創設し、自らを「バルカン半島のプロイセン」と見始めた。〔Emile Joseph Dillon, "''The Inside Story of the Peace Conference''", Ch. XV 〕しかしそれでもブルガリアが単独でオスマン帝国に勝てるか不明であった。
ギリシャではギリシャに有利にクレタ島問題を解決するために1897年にオスマン帝国に敗北ことを巻き返そうとする陸軍将校が、1909年8月に反乱を起こし、エレフテリオス・ヴェニゼロスの下で革新的な政権を保障した。フランス人軍事顧問の指導を受けた急激な軍の再編がこの目的の為に始まったが、その作業は戦争が勃発すると中断された。また、同盟にギリシャを参加させる議論でブルガリアはワルダルマケドニアに関するセルビアとの合意さえ領土分割に関するいかなる合意を拒否した。ブルガリアの外交政策は、同時にギリシャとのいかなる合意も拒否するとはいえ、ギリシャより先に自国の軍がエーゲマケドニアの大きな港とサロニカ (トルコ語名:セラーニク、現テッサロニキ)の重要な港湾都市を占領できると信じるマケドニアとの接点を制限する合意にセルビアを引き込もうとするものであった。
1911年、ドデカネス諸島を占領してすぐにイタリアがトリポリタニア侵攻を開始した。オスマン帝国に対するイタリアの決定的な軍事勝利は、バルカン諸国にオスマン帝国に勝てるかもしれないという思いを募らせた。したがって1912年の春と夏に様々なキリスト教系のバルカン諸国のこうした協議からバルカン同盟として知られることになる軍事同盟のネットワークが出来上がった。
列強(最も有名なのはフランスとオーストリア=ハンガリー)は、戦争にならないよう同盟に思いとどまらせようとしてこの外交上の連携に反応したが、失敗した。9月下旬、同盟とオスマン帝国の双方が、軍を動員した。モンテネグロが9月25日(旧暦)/10月8日に最初に宣戦を布告した。他の3国は、10月13日に不可能な最後通牒を突きつけると、10月17日に帝国に宣戦を布告した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「第一次バルカン戦争」の詳細全文を読む




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