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第7回スーパーボウル : ミニ英和和英辞書
第7回スーパーボウル[だい7かいすーぱーぼうる]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [だい]
 (n,pref) ordinal
: [かい]
 【名詞】 1. counter for occurrences 
スーパーボウル : [すーぱーぼうる]
 【名詞】 1. Super Bowl 2. (n) Super Bowl
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

第7回スーパーボウル : ウィキペディア日本語版
第7回スーパーボウル[だい7かいすーぱーぼうる]

第7回スーパーボウル(だい7かいスーパーボウル、Super Bowl VII)は1973年1月14日カリフォルニア州ロサンゼルスロサンゼルス・メモリアル・コロシアムで行われた7回目のスーパーボウルAFCチャンピオンであるマイアミ・ドルフィンズNFCチャンピオンであるワシントン・レッドスキンズの対戦。ドルフィンズがレッドスキンズを14-7で破って、スーパーボウル初制覇を果たした。MVPはドルフィンズのセイフティであるジェイク・スコットが受賞した。
スーパーボウルではノーネーム・ディフェンス(トム・ランドリーの発言が由来)と呼ばれた守備陣が第3Qまで相手を無得点に抑え、ガロ・イェプレミアンがFGをブロックされた後、パスを投げようとしてファンブルしたボールをマイク・バスが拾い49ヤードリターンしたタッチダウンによる7点に抑えて勝利、17戦無敗、パーフェクトシーズンでスーパーボウルを制した。
それまでのスーパーボウルで最多の90,182人の観客が訪れた〔放送権九億円、飛行船も動員 豪華ずくめスーパーボウル朝日新聞 1977年1月9日〕。
== 背景 ==

=== マイアミ・ドルフィンズ ===
ドルフィンズはレギュラーシーズン途中にエースQBを欠きながら14勝0敗でシーズンを終えた。第5週の試合でエースQBボブ・グリーシーは右足を骨折し、足首を脱臼した。翌週から38歳のQBアール・モラルが先発し、残り9試合に全勝した。モラルは、この活躍でその年のカムバック賞に選ばれた。モラルはかつてボルチモア・コルツ時代、ドン・シュラヘッドコーチの下でジョニー・ユナイタスの控えQBを務めており、第3回スーパーボウルでは先発出場していた。
ドルフィンズは若い選手たちが多く、スーパーボウルで先発出場した選手のうち、30歳以上は、ニック・ブオニコンティ1人であった。
ドルフィンズは、ラリー・ゾンカジム・キイクマーキュリー・モリス前年まではリターナーを務めていたが、キイクから先発ハーフバックの座を奪った。しかしスーパーボウルでは経験豊富なキイクが先発した。)による強力なランニングバック陣を擁した。ゾンカはチームトップの1,117ヤードを走り6TD、キイクは521ヤードを走り5TD、モリスは1000ヤードを走り、NFLトップの12TD、15回のレシーブで168ヤード、キックオフリターンでも334ヤードを記録した。ドルフィンズのラン攻撃はNFL新記録の2960ヤードを獲得し〔、同一チームで2人の1000ヤードラッシャーが誕生したこともNFL史上初めてのことであった。ドルフィンズはNFL最多の385得点をあげた。
レシーバーのポール・ウォーフィールドは、ラン攻撃が中心のドルフィンズで貴重なディープスリートとして、29回のレシーブで606ヤード(平均20.9ヤード)を獲得した。ドルフィンズのオフェンスラインは、後にプロフットボール殿堂入りを果たすジム・ランガーラリー・リトルに率いられた。
ダラス・カウボーイズのヘッドコーチ、トム・ランドリーが名付け親となった、ノーネームディフェンスと呼ばれたディフェンスは、後に殿堂入りをするLBニック・ブオニコンティに率いられ、NFL最少の171失点でシーズンを終えた。またNFL2位の26インターセプトをあげた。Sジェイク・スコットが5インターセプト、ロイド・マンフォードが4インターセプトをあげた。またディック・アンダーソンは3インターセプトに加えてNFLトップの5ファンブルリカバーをマークした。
シーズン中にディフェンスラインマンに負傷者が出たため、ディフェンスコーディネーター、ビル・アーンスパーガーの考案した53ディフェンスを(背番号53のボブ・マチソンを4-3ディフェンスのディフェンシブエンドで起用したり、3-4ディフェンスのラインバッカーとして起用した。)用いた。マニー・フェルナンデスがノーズタックルを務めた。マチソンは、ラインバッカーとして起用された際、パスラッシュやパスカバーで活躍した。LBダグ・スウィフトは3インターセプト、1ファンブルリカバーを記録した。
ドルフィンズはレギュラーシーズンを無敗で終えたが、これは1934年1942年シカゴ・ベアーズしか記録しておらず、ベアーズはいずれの年もNFLチャンピオンシップゲームで敗れていた。なお、クリーブランド・ブラウンズは、AAFC時代の1948年に無敗でチャンピオンとなった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「第7回スーパーボウル」の詳細全文を読む




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