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クリーブランド・ブラウンズ : ミニ英和和英辞書
クリーブランド・ブラウンズ[らん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ラン : [らん]
 【名詞】 1. (1) run 2. (2) LAN (local area network) 3. (P), (n) (1) run/(2) LAN (local area network)

クリーブランド・ブラウンズ : ウィキペディア日本語版
クリーブランド・ブラウンズ[らん]

クリーブランド・ブラウンズ (Cleveland Browns) は、オハイオ州クリーブランドに本拠地を置くNFLチーム。AFC北地区に所属している。現在のチームは1999年に再度設立されたもの。これは1996年に旧ブラウンズボルチモア移転が当時のアート・モデルオーナーによって決定された際にファンの反対によって愛称や歴史などチームのロイヤリティはクリーブランド市に残され、その後新チームが「ブラウンズ」を引き継ぐ形で設立されたため。このエクスパンションによってNFLは全31チームとなり、それが現在の32チーム体制につながった。NFL32チームの中で唯一チームロゴを持たないため、ヘルメットは中央部に茶色と白のストライブが入ったオレンジ色の無地となっている。NFLの公式サイトなどでも、他のチームがロゴマークで表されているところではブラウンズはヘルメットの絵となっている。
== 歴史 ==

=== 1970年まで ===
1946年にNFLに対抗して創設されたオール・アメリカ・フットボール・カンファレンス(All-America Football Conference)の一員としてアーサー・B・マクブライドによってチームが創設された(サンフランシスコ・フォーティナイナーズも同じ年に創設されてAAFCに参加している。)。チーム名は最初クリーブランドのプレイン・ディーラー紙で行われた投票で「パンサーズ」が選ばれたが、過去に「クリーブランド・パンサーズ」というフットボールチームが存在し、地元の実業家がその名前の権利を保有していることを連絡してきた。チームは別にチーム名命名コンテストを実施し、ヘッドコーチであるポール・ブラウンの名にちなんで「ブラウンズ」となった。ブラウンは、実際にはボクシングのヘビー級チャンピオンジョー・ルイスにちなんだ「ブラウンボンバーズ」が最も多い得票数だったが後に撤回され、ブラウン自身の名をつけることを承諾したと述べている〔。AAFCは4年間存続した後NFLに統合されたが、ブラウンズは4シーズン全てでチャンピオンシップを獲得し、4シーズンを通して4敗しかしなかった。
NFLとAAFCの合併後、ブラウンズはサンフランシスコ・フォーティナイナーズおよびボルティモア・コルツ(初代)とともに1950年にNFLに移動した。批評家はAAFCの全体的な弱さがブラウンズを目立たせていると考えていた。しかし、ブラウンズは最初のNFL公式試合において、NFLチャンピオンに2年連続なっていたフィラデルフィア・イーグルスからパスで346ヤード、トータルで487ヤード獲得し、35対10で勝利した〔世紀の番狂わせTOP10 第4位:1950シーズン開幕戦 NFL JAPAN〕。そして最初の年のNFLチャンピオンシップで、試合終了直前にルー・グローザのフィールドゴールによりロサンゼルス・ラムズを破り優勝した。ブラウンズは続く5度のタイトルゲーム出場を果たし、1954年1955年に連覇した。1946年から1955年までのチーム創設から10年でブラウンズは毎年チャンピオンシップゲームに出場(最初の4回はAAFC)し、7回優勝を果たした。
1956年シーズン開幕前にオットー・グラハムが怪我のため引退すると3人のQB、ジョージ・ラターマンベイブ・パリリトミー・オコネルが使われたが全員タッチダウンよりも被インターセプト回数が多くチームは5勝7敗と初めて負け越した。1957年のドラフトでシラキューズ大学のフルバック、ジム・ブラウンを獲得した。ジム・ブラウンは1年目から12試合で942ヤードを走りリーディングラッシャーとなり、またルーキー・オブ・ザ・イヤーに輝いた。チームは9勝2敗1分でチャンピオンシップゲームに出場したが2人のQB、トミー・オコネルとミルト・プラムデトロイト・ライオンズに6回のターンオーバーを許し14-59と大敗した。1958年にジム・ブラウンは他のランニングバック全てのほぼ2倍以上となる1527ヤードを走りリーディングラッシャーとなった。ブラウンはキャリア9年間の内、7回1000ヤードラッシャーとなったがその間チームが優勝したのは1964年の1回のみであった。
1961年にアート・モデルが1953年からチームオーナーとなっていたデビッド・ジョーンズからチームを購入した。1962年シーズン7勝6敗1分の成績に終わると翌1963年の1月9日、ポール・ブラウンとの契約打ち切りがアート・モデルをはじめ過半数のオーナーの支持により決定された。決定に至る議論は地方紙のストライキ中に進行し大きな物議を醸すことはなかった。クリーブランドのスポーツライター、フランク・ギボンズはその解雇について、「ターミナルタワー(クリーブランドで一番高いビル)を倒すようなものだ」と語っている〔Levy, op cit, p.186-187. 〕。後任のヘッドコーチにはブラウンの下で長年アシスタントコーチを務めたブラントン・コリエルが就任した。1963年にチームは10勝4敗、ブラウンは1863ヤードを走った。1964年には10勝3敗1分で7年ぶりにチャンピオンシップゲームに出場、ボルチモア・コルツを27-0で破った。この試合のMVPには3回のタッチダウンパスレシーブを見せたゲイリー・コリンズが選ばれた。1965年、ジム・ブラウンの引退後の1968年1969年もチャンピオンシップゲームに進出したが優勝は果たせず、1970年シーズン終了後にコリエルヘッドコーチは辞任、オフェンスコーディネーターのニック・スコリッチが新ヘッドコーチとなった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「クリーブランド・ブラウンズ」の詳細全文を読む




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