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祭遵 : ミニ英和和英辞書
祭遵[さい じゅん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [まつり]
 【名詞】 1. festival 2. feast

祭遵 : ウィキペディア日本語版
祭遵[さい じゅん]

祭 遵(さい じゅん、? - 33年)は後漢の武将。字は弟孫(ていそん)、潁川潁陽河南省襄城県)の人(『後漢書』列伝10・本伝)。後漢・光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の9位に序せられる(『後漢書』列伝12)。

==略歴==

若くして経書を好み、家は富裕といえども慎ましく粗末な衣服を着ていた。母を亡くした時は土を担いで塚を作った。かつて、地方の小役人に侵害されることがあったが、賓客と結託してこれを殺害した。最初、県中の者は祭遵が温和な人物だと思っていたが、ついには誰もがはばかった。劉秀昆陽の戦いの後、潁陽を過ぎるにあたって、祭遵は県の官吏であるのでしばしば進見し、劉秀は容姿態度を気に入って配下にした。河北に従い、軍市の令となった。劉秀の一族の子供が法令を犯したので、これを殴り殺し、劉秀は怒って祭遵を捕えた。主簿の陳副が諌めて曰く「明公は常に整然たることを欲す。祭遵は法を奉じて避けず。これは教令が行き届く所なり」。劉秀は祭遵を許すと刺姦(軍の監察官)将軍とし、諸将に「祭遵に気をつけろ。吾の一族の子が法を犯しても、殺したのだから、諸君を大目に見ることは無い」と警告した。次に祭遵は偏将軍となり、河北を制した後は列侯と為った。
建武2年(26年)、征虜将軍を拝命し、潁陽侯に封じられた。景丹に従い、諸将と共に弘農の平定に奔走した。新城の賊の張満を囲んだ。
建武3年(27年)、囲むこと一年近く、張満を捕え斬った。劉秀の鄧奉親征において、杜衍で鄧奉の弟鄧終を撃ち破った。朱祜に従い群雄延岑と東陽で戦い、その将張成を斬った。
建武4年(28年)、朱祜耿弇劉喜劉植の弟)〔光武帝本紀では四将を率いてとあり、他の列伝から残り一将に該当するのは王常である。〕と共に叛乱した涿郡太守張豊を討ち、先んじてこれを攻め、張豊はその配下に捕えられて降り、これを斬った。また、元は光武帝配下で、独立した漁陽の群雄彭寵を防ぐために留った。
建武5年(29年)、彭寵はその奴僕に殺され、祭遵は漁陽郡を収めた。
建武6年(30年)、光武帝に命じられ、先頭に立って、耿弇蓋延王常馬武、劉歆(劉植の従兄弟)、劉向と共に天水より公孫述を討たんとする。光武帝も長安に御幸するが、隗囂は漢軍が隴に上るを喜ばず、何かと言い逃れをする。光武の諸将は「隗囂の出陣を待ち、隗囂の諸将を封じて疑いを晴らさん」と言うも、祭遵は「隗囂は謀ること久しければ、今軍を留めて時を延ばせば、その謀を益々深め、蜀の警戒はいよいよ増さん。進むに如かず」と言う。光武帝はその言に従い、祭遵を先攻させた。隗囂の兵は遂に歯向かい、祭遵は隗囂の将王元を破って新関に追った。諸将到るが隗囂に敗れ、隴を降った。勢いに乗った隗囂が、関中・三輔を王元・行巡に襲わせるとなると、詔を受けて祭遵は汧県を守り、王元を破った。
建武8年(32年)、来歙は病いとなった祭遵から兵を預かり、略陽を降した。来歙は略陽に籠城し半年間持ち堪え、光武帝が、再び隴に上り囲みを解かせ、隴を降る際に祭遵の軍を慰労した。公孫述隗囂の救援に来たれば、呉漢耿弇らは軍を引くも、祭遵は独り留まり退かず。
建武9年(33年)、陣中に卒した。謚は成侯。詔によって軍は馮異が引き継いだ。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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