|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 神 : [かみ] 【名詞】 1. god ・ 神武 : [じんむ] (n) legendary founding Emperor of Japan ・ 王 : [おう] 1. (n,n-suf) (1) king 2. ruler 3. sovereign 4. monarch 5. (2) king (for senior player) (shogi)
神武王(しんぶおう、生年不詳 – 839年)は新羅の第45代の王(在位:839年)であり、姓は金、諱は祐徴〔『三国遺事』王暦では諱は佑徴とする。〕。第38代元聖王の曾孫であり、父は上大等金均貞、母は朴氏の真矯夫人、王妃は貞継夫人〔『三国遺事』王暦では、貞従夫人または貞継夫人とし、明海■■の娘とする。文科大学史誌叢書版の頭注では「角干」が脱落したものとしている。→[]〕。839年1月19日〔『三国遺事』王暦では、閔哀王の死去を1月22日とする。〕に先代の閔哀王を殺して王位に就いた。 == 即位まで == 42代興徳王の3年(828年)1月には大阿飡(5等官)の位にあって侍中に抜擢されたが、831年1月には王都金城(慶尚北道慶州市)に起こった地震のために侍中を免職された。834年1月には再び侍中に返り咲いたが、835年2月に父の金均貞が上大等に就任すると、祐徴は上表して侍中職を辞任した。このときに後任の侍中になったのが金明(後の閔哀王)だった。 興徳王の死後、上大等職にあった父均貞とその甥の金悌隆(後の僖康王)との間に王位継承をめぐって争いが起こった。騒乱の中で均貞が死んで僖康王が即位すると、祐徴らは清海鎮(全羅南道莞島郡)大使の張保皐を頼って落ち延びていった。その後、僖康王を擁立した金明が反乱を起こし、僖康王を殺して838年1月に閔哀王として即位すると、祐徴派は同年3月から閔哀王を討つための軍事行動を開始した。結果として祐徴の将軍の金陽が王都に迫り、839年1月19日に閔哀王を殺害した。祐徴は王の儀礼を以て閔哀王の屍を埋葬し、また、古礼に則って即位式を執り行い、王位を継承した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「神武王」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|