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皇后ウージェニー : ミニ英和和英辞書
皇后ウージェニー[こうごう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

皇后 : [こうごう]
 【名詞】 1. (Japanese) empress 2. queen 
: [きさき]
 【名詞】 1. empress 2. queen
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

皇后ウージェニー ( リダイレクト:ウジェニー・ド・モンティジョ ) : ウィキペディア日本語版
ウジェニー・ド・モンティジョ[ちょうおん]

ウジェニー・ド・モンティジョ(, 1826年5月5日 - 1920年7月11日)は、フランス皇帝ナポレオン3世皇后
ウジェニー・ド・モンティジョはテバ伯爵令嬢マリア・エウヘニア・イニャシア・アグスティナ・デ・パラフォクス・イ・キルクパトリック()として生まれ、結婚にともない、フランス皇后ウジェニー()となった。
==生涯==

===少女期===

ウジェニーはスペイングラナダにおいて、テバ伯爵・モンティホ伯爵・アルガバ侯爵およびペニャルダ公爵の称号を持つスペイン貴族(Grandes de España)ドン・シプリアーノ・デ・パラフォクス・イ・ポルトカレッロ(1785年 - 1839年)と、スコットランド人の父とスペイン人の母の血を引くマリア・マヌエラ・キルクパトリックの間に生まれた。ドン・シプリアーノはボナパルト主義者であった。マヌエラの父、クローゼンバーンのウィリアム・カークパトリックは在マラガアメリカ合衆国領事で、後に大手のワイン販売業者となった。ウジェニーの1つ上の姉マリア・フランシスカ・デ・セラスもまた「パカ」の愛称で知られる。2人は1834年から1838年までパリのサンジェルマン地区ヴァレンヌ街にあるサクレクール寺院女子修道院で教育を受けていた。そこでは彼女は、揺るぎないカトリックとしての教えを受ける。ここは厳格なカトリック教育をすることで知られており、ここでの日々ウジェニーの信仰に大きな影響をもたらした。エウヘニア・デ・モンティホの名はここで学んでいる頃からフランス国内で知れ渡ることになる。
ウジェニー姉妹は家族内ではフランス語を日常語として使い、スペイン語を正式に読み始めたのは12歳のときからである。幼い頃から父に連れられ乗馬をし、時には焚き火をし野営もするような遠乗りに出かけている。水泳も幼い頃から好んだスポーツである。11歳の頃にブリストルにあるイギリス系の学校に姉妹は入れられたが、家庭教師と共に姉妹は脱走してしまう。この頃、メリメの紹介で小説家のスタンダールと知り合っている。母のサロンに2人が現れるとウジェニーたちは彼らの話に夢中になった。メリメはウジェニーの生涯の友となっている。ウジェニーが13歳の時、最愛の父ドン・シカプリアーノは亡くなった。父が亡くなると母マリアとの仲はあまりうまくいかなくなっている。
姉のパカは家族の栄典のほとんどを相続し、1849年に幼馴染の第15代アルバ公ヤコポ・フィッツ=ジェイムズ・ステュアートと結婚した。実はウジェニーはアルバ公に恋をしていた。いつかはアルバ公に嫁ぎたいと願っていたが、母は静かな性格のマリアをアルバ公に嫁がせたのだ。失恋の痛手から男装しマドリッドの町を煙草を吸いながら闊歩したり、裸馬で町を疾走したり、闘牛場に男装して現れるなどの奇行が5年ほど続いた。しかし愛してやまない姉夫妻を友人として認めることにし、生涯の友人となった。カトリックの教えが一時は自殺も考えたウジェニーを救ったのである。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ウジェニー・ド・モンティジョ」の詳細全文を読む




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